No.693

あなたが息をしている。奇跡って、何度だって呼んでやる。現像を忘れられたフィルムカメラが、裁縫箱で眠ってた。知られたくない、でも捨てられない。そんなものばかりだね。そんなものばかりだ。名前を捨てたら軽くなれると思ってたんだ。ねえ、きみ。ふたりきりなら名前なんかあってもなくても関係ない。しまいには言葉だって曖昧になるだろう。もともと曖昧だったんだ。それがたしかだと信じようとしたんだ。まだ濡れているカップに、砂糖漬けの花を浮かべていく。溶け出す茎が、葉脈が、ぼくたちの先祖へつながっていく。きみはいつか、貝殻だった?ぼくはいつかそれと、ガラスとを交換したことがあったと思うんだ。ひっかかれて赤くなる。胸がチクリと痛む。死ぬことは怖くてちっとも慣れない。もう何度となく繰り返したのにね。ほんとうは幸せなことなのにね。さよならを言えるなんて。ちゃんとさよならと言って別れられるなんて。きみのする最後の呼吸が波のように引いていくのを、目をつむってぼくは肌で感じていた。きみはえいえんと遠ざかるのに、ぼくの体は終わらない海で満ちていった。