ポエム。はずかしい言葉だと思う。わざとそんなはずかしいような響きをしやがってと思う。でも本当にそうだろうか。もしこれが、なんだ、ハイセンスな歌を歌うアーティストの名前とかだったらどうだ。えもい!て思うでしょう。こう、かっこいい写真のうえにかっこいいフォントでポエムって書いてあってもそれを待ち受けにすることだってできるでしょう。だがしかしポエムである。
なんか、まるまってるイメージがある。ポムポムプリンみたいな(安易)。もうちょっとシャープな響きだったらどうにかなったのでは?たとえば、スラッシュ。「/」のこと。いや、むしろ恥ずかしいのかもな。わからない。
けっきょく詩ははずかしいものなんだよ。小説よりもイラストよりもはずかしいもので、でもはずかしいと思ってはいけないんだよ。ましてや言ってはいけない。いや、言ってしまった。なので、言ってはいけなかったと過去形にしよう。それにしてもなんでこんなはずかしいのか?
言葉は大量生産大量消費された。意味を付与された、解釈をされた。されすぎた。分析されすぎた。削られすぎた。殺されすぎ、洗練されすぎた。無駄が省かれ、意味を求められすぎた。
そして言葉はくたびれて見下された。言葉がくたくたになっていることに気づく人は少なく、いや、少ないかのように思えた。
しかし、ある人が立ち止まった。しなびた言葉をひろいあげてしげしげと眺めながら言った。
「これは、いいものだ。私はこれをすきかもしれない」。
言葉はすこし元気をとりもどしたようだった。
みすぼらしくしなびて見えたがそれは新しい水を吸い上げるための姿かもしれなかった。
言葉の周囲に人の気配がする。
「なるほど、わたしにとってもいいものだ」
「うむ、ぼくもこれを好きである気がする」
「おい、これはおまえにとっても必要なものではないか?」
言葉はときどきしなびて見えた。言葉はときどきくたびれて見えた。それはたしかだった。言葉には力がなく、言葉にすがってもどうせ何もないと思うひともいた。それもたしかだった。
だが言葉はいとも簡単に息を吹き返すことができた。
しなびて見えたのもくたびれて見えたのも見る人がしなびてくたびれていたからなんだろう。そう、言葉はいつもみずみずしかった。
結局なんなんだろう。何を書きたいんだろう。
そう、これ(それ)。
結局自分は何を書きたいんだろうというときにもすでに書き出すことができるものが詩だよ。小説には真似できないでしょう。他のものには真似できないんだ。
何もかも消してなかったことにしてしまいたくなる恥ずかしさと戦ってるのはみんな同じ。
だとしんじたい。