今はなんともないけど60歳70歳になったら「さみしい」ってしみじみ思うのかなあってしみじみ考えててやばい。
時間系は取り返しがつかないので。「あの時ああしとけばー!」って思い返すこと今はあんまりない。むしろ「あの時はあれしか選択肢ないだろ」って思うしあんまり振り返らない。
ほう、だと自分では思ってる。でも高齢者になってくるとちがうのか?たまに、夕方四時くらいに、横断歩道を渡ってる親子や老夫婦見てると泣けてくる。
こんな気持ちのまま殺人者や死刑の本など読んでるから赤い文字の夢とか見て「うわっ」と目を覚ますなどする。ふと虚無的な気持ちになって、憂鬱とか孤独感とも違う、ただただなんにもないなって気持ちになる。
生きていても、人間、命、なんのためだ?続く価値は?って、続ける価値は?ってなる。価値とか考え出すからおかしいんだけど。
正解がないことわかってるから人にきいても仕方ないって思うし答えを出すことを諦める。答えとかなくてみんな納得できるかどうかで答え決めてるよね。あ、それが答えか。
どんな自由も不十分で本当に人間に必要なのは死に方を選べる権利。タイミング。死に方。場所。そうすると望まぬ自殺とかうまれて殺人幇助とかなんとかかんとかが立ちはだかってダメになるのかな。そういうのも乗り越えて、いや待てよ、でも産まれるときに「産みますよ」ってきかれなかったじゃん。
じゃさ、自分の好きな時に立ち去ってよくない?
すごーく不自然な気がする。死んではいけないと他人からとめられるのって。
そして私はこういう話をしたときに「だいじょうぶ?」「あなた疲れてるのよ」って心配されるのも不本意である。
違う、そうじゃない。
夕焼けを見てうわーきれーい!なんであんな色してるんだー?絵の具でもできる?
って思うように、みんなが「なんでこうなの?」「あれは何なの?」って疑問に思うことの中に生死が含まれていて欲しい。
考えただけでタブーみたいに腫れ物みたいに扱われるのおかしくて息苦しい。
であるから詩を書くといい。SNSはつながりが多すぎる。接続点が多すぎる。
もっと、密度の低い場所で、ひとりひとりが誰へともなくぶつぶつつぶやいていればよいのでは。一見恐ろしいけどこれがほんとうに優しい世界。
たぶん。
しらんけど。