ずーっとひとりで書いてた。
あれは、小学校2年か3年の頃だ。サンリオキャラクターの鍵付き日記帳を買ってもらって、そこに1日も欠かさずその日の出来事を書いてた。5年生くらいまで。そこからインターネットと出会って、メルマガ→サイト→ブログって流れになっていったんだけど。
この小2〜3のころの、日記帳って、自分、何を思って書いてたんだろうな、って。
宿題でもないし、発表するものでもない。誰かに見せるのでもなく、自分が読み返すためでもない。
記録?その頃記録って概念あったかな?記録って概念は大人特有のものでは。知らぬが。
無心だったと思う。
「きつい」「やめたい」とかぜんっぜん考えてなかったし、かと言って「たのしい」「すき」でもなかったの。無だった。無。無。潔く無。
無って、すごいなあ。今、無で取り組んでることって、あまりないもんな。いや、あるか。ここか。誰に見せるでもない、自分はたまに読み返すかな、好きでも嫌いでもない、まあ好きって言ったら好きになるのかな?
あ、そうだ、
好きかときかれたらそうでもない。
ってやつの最強なところって、嫌いになったり飽きることがないってところなんだよなー。将来のことは分からんが。いつか、ふっと、離れていくのかもしれないけど、そのときも「嫌いだ」ってわけで離れるのではないように思う。
だから、人や生き物に対しても「好き好き」っていうのより、「あれ、いたんだ?」ってくらいの命を大切にするなどすればいいのかなって思う。だって好きなものはいつか嫌いになりそうじゃん?めんどくさがりの極み。
だから、目標とか夢って、あんまり挙げないほうがいいのかもなってふうにも思う。小さい子はさ、「こうなりたい!」って目をキラキラさせるじゃん、たまに。そして大人も喜ぶじゃん。ああいうの、「ああ〜・・・」って思う。ことも、ある。たまに。その勢いで向かって行ったらもったいないなあ。と。これがね、俗にいう石橋を叩いて壊す戦法なのかもね。わたしはあまりよくない大人である。
いかに長く、いかに末永くともにあるかが大切であって、一瞬のアバンチュールに胸を焦がすものではないというふうに思う。あれだ、ウォーレン・バフェットかな?
向き不向きなんだろうね。もうそれでいいんだよね。まとまるんだろうね、それが一番。
デイトレードが得意なひととバフェットタイプ、どちらも成功者がいることからも、絶対ってないから、逆に言えば絶対失敗ってものもないわけでしょう。
つまり?
結論:みんなちがってみんないい。
すでにある言葉。
いやほんとそう。まじだ。