忘却は救済だ。
そう考えたことがある?
欲しいと口にせずとも与えられるものを疎ましがるのは、愚か者のすることかもしれない。たぶんね。
だって、たとえば、棚から選んだメープルシロップの理由を言えるだろうか。休前日の夜、花屋で選んだ青い蕾の理由を?
分かりづらいのなら直感の話をしよう。第一印象は大抵の場合で正しいというやつ。気のせいなんかじゃない。きみはこれまでの経験や知見から瞬時に判断を下すんだ。直感とはきわめて合理的で、なんなら解体できるプロセスだ。
同じように過ごした一昨日も、出会う人に感じる思いもすべて、きみではなくきみの魂が記憶していることなのかも知れない。そう、考えたことは?
気味が悪い?
え、現象でなくてぼくのことが?
うーん、それってほんとにぼくのせい?
忘却は救済と言ったね。きみはその言葉に強い反発を覚えるのかも知れないね。でも、それって、なんでだろう?
忘れたくないことを忘れなければならなかったから?しかも、それを、忘れたくないと思っている相手から直に言われたんだ。それで否定したくなるんだ。
でも、平気。だいじょうぶ。
きみはメープルシロップそのものを嫌いになることはないし、来週末も花屋へ行ける。そこにあるのは、きみに選んでもらうためだけに咲いた花ばかり。そう、きみの存在は祝福されているんだ。なかなか自分では認めたくなくても。
忘却が救済だなんて信じない?それでもいい。そう思うのはとても自然なことだから。なぜそう思うか?それすら気にかけることはない。一度の人生に収まりきらない生を受けているから。魂がきみに味方するから。
どうして疑ったりできるだろう。ぼくにとってきみはいつまでも子どものようだよ。大人になりきることはない。だから汚れたことを憂えないで欲しい。そもそも汚れることなどない。傲慢とすら思う。
ぼくは勘違いした奴のように一度だけ目配せするだろう。今日、この世で、すれ違うだけのきみへ。約束どおりだ。きみは、ちゃんと、ぼくを忘れられたようだね。ほんとうに、いい子だ。ぼくの直感どおりに。