【雑記】お祈りにお金はかかりません

ときどき自分の書いたもの読んで「あー・・・やばい好き・・・」ってなるからあれだと思う。(ま、毎回じゃないからなっ///)。この傾向は時が経つほど強まる。数週間前のとか数年前のとか読んでて。なので私はずっと老後の自分が読むための詩集をつくってんじゃないだろうかと一瞬思った。人間生きていくためには思い込みか絶対的な成功体験のどちらかがないと難しいと思う。後者はむずかしくても前者って割りとすぐじゃん?呼吸するように手を出すんだよ、何においても。

少し話は変わるんだけど、この年になったからというのもあるんだけど、逃げ出さないことも悪だと思うんだよ。私ほんとそれを思うことがある。「立ち向かっていれば」「これを乗り越えられれば」って一見いいふうに聞こえるじゃん?向かい風にチャレンジする俺かっこいいじゃん?でもそれの危ないとこって「乗り越えさえすれば」って考えてる部分だと思うんだよ。耐え抜くことや乗り越えることが目標になってるのね。でも実際そればかりじゃないじゃない?そのやり方だと努力がむくわれなかったときに「あれだけやったのに」「なぜだ」ってなるのねきっと。でもそれって当然っちゃ当然で「工夫」をしてこなかったからじゃん?

たかい山の上にケーキがあります。

ごめん、だっさ。自分で言っててこの例えは無いなと思ったけどまあこれで進める。ざっくりと。

たかい山の上にケーキがあってあなたがそれを食べたいとする。

で、登山するって一つの方法ではある。でもそれがあなたにとって「最適」とは限らないでしょ。もしかしたら誰かにおんぶしてもらってもいいわけだし、なんならヘリで飛んでってもいいわけなのね。でさ、そのときに登山してる人がヘリで飛んでったひとの文句を言うのは違うと思うの。だってさヘリを出せるってことはそれなりの資力か人脈があったわけじゃん。影響力でも詐欺力でもなんでもいい、とにかくヘリ1つ動かせたわけでしょ?それはもうその人のスキルなので、楽をしているから悪だって考えではいけないはずなの。

なに書いてたんだっけ。

なので、大切なのは「工夫」とか「自分用カスタマイズ」ってことなのだと思う。がんばった「から」むくわれる「はず」とか、努力した「から」成功する「はず」って、頑張ってるようでなんか違うよ。そこには思考が無いもん、ひたむきではあるけどもね。

そういう危険性をね、ふと重く受け止めるわけですよ、何があったわけでもないけど。軽やかに自分の望みをかなえていくひとっているでしょう?そういうときに「なんだあいつラクしやがって」って思う人になりたくないなと思うんだ。

あとね、単純に危ないわけですよ。「頑張れば」「これを乗り越えたら」そういう耐久性たらればは人を死に至らしめるよ?実際。危ないと思ったら逃げればいいし、あ、無理。と思ったらまず無理ってことでいいじゃない?だって無理なんだもん!自分がそう言ってるんだもん。それを打ち消して「いや、もう少し頑張ればなんとかなるはず」って、向上心強いようで自分の声を無視しやがってるってことだから最低だからな。

私はほんと思う。自分以外に大切なやつなんていてはいけないよ、一人ひとりが自分自身を大切にして安心して満たされてはじめて他人のこと周囲のことなんだよ。
もうほんと思う。
死ぬって言うくらい良いんだよべつに本当に死ななければ。いやでも本心から死にたいならいいのよべつに、そういう人だっているのだから。そうじゃなくて本当はあれがしたいこれがしたい、でも生きることができない。あれが邪魔をするあいつが怖い、とかそういう理由で死ぬのならだよ。

悩める優しい人たちがみんなしあわせになってほしい(結論)。