no.52

真新しい紙を前にして身震い。残滓から再生が可能か見極める一瞬。息をしているのかいないのか。窓の外は夜と朝の繋ぎ目。微熱のある誰かの夢の中みたいな現実の中。馴染みない手ざわりを何度も確かめる。ぬくもりの不足した空気を深海魚が泳ぐ。そんな妄想。誰にも言えなかった、たくさんの幻を閉じ込めた本が、棚の裏で息をひそめる。ぼくが見向きを止めた初恋がクローゼットの奥でぼくを見つめている。すべては瞬きのあいだに起こって終わるから、さっきまでのぼくがこの今のぼくであると、本当は確信が持てない。持っちゃいけない。名前の違う青ばかり集めた絵の具入れは誰からも羨まれなくてそのおかげで取り上げられもしなかった。世界は侵掠にまみれてしまったけれど朝日はまた昇る、そして下る。かわりばんこに訪れる対極のうつろいに酔いが覚めないまま、祈りばかり呟いている。雪の積もる音。誰も跡を残せないこと。軌跡の存しない世界のたたえる平等という怠惰な優しさ。まだ何者でもないというこの幸福が、ぼくがぼくなりに拙い日々を紡ぐことを禁じない。ほら、握った鉛筆がさらさらと動き出すよ。それはすでに待っている。息をひそめて。なつっこい眼差しで。