【雑記】やさしいひとりのつくりかた

わたしさいきんになって「これは最強だな」って自分の中で基礎を固め始めたワードが3つあってそれは何かというと今から書きますね。

1. 他人じゃなくて自分の期待にこたえる
2. おまえ俺じゃないじゃん
3. うるせーばーか

こんな感じ。

ふざけていると思わないでほしい、思ってもいいけど一つずつどういう意図か伝われば良いと思う。少しでもいいから。

まずは1つ目の「他人じゃなくて自分の期待にこたえる」ということです。

ん、ちょっと待って。
なんかおかしいなと思ったら、ここまでなんで敬語で書いてるんだろう?
ここから、いつもどおりに戻す。

まず大前提として「人は自分のことしか考えていない」という事実を認めてほしい。
「いやいや、おまえ自分のブログだからつってさ、そう極論でものを語るなよ、え?他人の利益を優先して考える人やボランティア精神旺盛な人だっているだろうがよ」って言いたくなる気持ちも分かる。
しかしわたしはそういうの信じてなくて、いや信じてないっていうより「もう一皮むけるでしょ」って思っていて、結局「自分が満たされるから」でしょ。
他人が喜ぶ。すると自分が嬉しい。なぜなら自分が感謝されてるから。自分が認められてるから。自分がいてよかったな自分かわいいい!
ってなるから。
多少語彙的ニュアンスで違和感あってもだいたいそうだと思う。
そしてここが割と誤解されているなあと感じるのは「自分かわいい」精神が悪どくとらえられがちだという点だ。「結局自分が可愛いのかよ!」の言葉に代表されるように自分の満足を最優先させたり、そうでなくても重視すること自体が悪と見られる風潮があるのではないかな?日本人の文化的に?知らんけど。
そんな中でわたしたちがんばって生きているので「自分かわいいって思っちゃだめ。少なくとも出しちゃだめ。オブラート、オブラート」って思うかも知れない。
まあ確かに度が越せば傍迷惑だろう。
(話それそうー。いつもの悪い癖で話それってって「で、なんだっけ?」な展開になりそうー。軌道修正。)
えーと、だから。
自分かわいいって思っていいと思うよ。
だって自分がつらいとき誰が一番つらいかっていうと自分じゃん?
そりゃそうだよね、考えるまでもないよね、もう、実際バリバリの当事者だから。
共感とか相談役とか名乗るやつら現れてもそいつら最終的に十字架背負ってくれないじゃん。
会社とかイメージすると分かりやすいよね。当たり前だけど使えなくなったら守ってくれないじゃん。
なのでね、自分かわいいと思って良いと思う。というか、そうしないと割合というかバランス的におかしいんでない?
したがって、周囲からの圧力であったり期待であったり羨望であったり、なんらかの言動を期待するまなざしが自分に対して向けられているような状況になっても、だ。もしそれを「したくないな・・・」って思っているのならしなくていいし、というか、してはいけないし、「だけど自分はこう感じているな」だったらそれに従えばいいんだよ。
これが「1. 他人じゃなくて自分の期待にこたえる」の理由です。

ここまで書いたら「2.おまえ俺じゃないじゃん」の意味もだいたい同じだなって分かってもらえると思うんだが、本当にそうだよ。
説明要らないんでないかな。
だって自分に刺さったナイフで痛いのってナイフ刺さってる自分でしょ。誰かが引っこ抜いてくれたり治療してくれたとしてもその間ずっと痛いのって自分じゃないか?
あと、自分の進路だの決断だのに口出して来る人ってわかりやすく悪どいならまだしも本人でさえ無自覚のうちに親身ヅラしてるから要注意な。
その人はその人の経験や見識から提言してるに過ぎず、あるいは世間一般的なものかもしれないなー、ようは無根拠で無責任なんだよ。ひねくれて言っているんじゃなくて「根拠もないし責任もない」ってことです。そのまま。他人の助言に従って行動したとするよ。失敗したり「こんなんじゃなかった」ってなった時に、助言者が責任とってくれますか?とらない、というか、とれんでしょう。
それは海で生きる(海でしか生きられない)魚に対して「川マジ最高!川で暮らそう!だっておれ川ちょう好きだもんね!いいとこだよ、来いよ!」って言ってるようなもんで(それはそれでちょっとかわいいと思いながら書いている)、だからそういうふうに言われたら「おまえ俺じゃないじゃん」って言い返していいと思う。
気まずい雰囲気ならそっと離れるだけでもいいと思う。鵜呑みにしたり洗脳される必要はない。
「なんか言ってることわかんねーけど川楽しそうだから川でも生きられるかもしんねー。行ってみっか」って感じるなら、それはそれで行けば良いけど。

最後は「3.うるせーばーか」である。
これはできれば心の中だけで言っておいたほうがいい。
もう大抵みんな語りたいだけ。押し付けたいだけ。百歩譲ってそれが親切心だったとしてもだよ、おまえはおまえの人生しか生きていないわけだしましてや俺のソムリエじゃないだろ?ってことなんだよ本当に。(おっいい例え!っていま自画自賛したけどどうだろ微妙かな)。
もうね、その人が仮に100回転生してる命だったとしてもだよ、私ではないんだ。
同じ時代同じ世界を生きているんだとしても、厳密に、まったく別個なんだよ。
それは希望でありワクワクでありいいことなのかもしれないけど弱ってる時は流されてしまうんじゃないのかな。
もしもあなたに友人が多くてたくさんの人が優しい声をかけてくれる時があっても心の片隅では「うるせーばーか」と言えるスペースは残して置いてほしい。な。

それがなくなったら委ねるだけになってしまってあなた簡単に飲み込まれるよ。

以上、ためにならない講座であった。

書いてる本人だけ頭の中すっきりまとまったんでしょ、とでも思ってるのならば答えはノーだ、とだけ最後に書き記しておこう。

なんなら太字に装飾したっていい、答えは、ノーだ。

ここまで2,454文字。原稿用紙6.1枚。

きみとわたしは有益な時間を共有したと言えるんだろうか?
答えはイエスであってほしい。