考えていたこと。
好きなものってなんで消えちゃうんだろうな。蛍かな?
私が思うには「消えた」というより「身に溶けた」のではないかな、ということである。
生涯それを続けていく人だって確かにいる。だからと言ってそういう人々に比較して好きな気持ちが劣っていたのではないか、とか、もうこれから先自分は何も楽しめないのではないか、とか、思う必要性などまったくない、それどころか無駄だと思っている。むだむだ。
例えば私は小学校4年生くらいまで絵を描くのが好きだった。書きながら思い出したけど、そうだった。
幼稚園生のころから、友だちと遊ぶ時間よりも黙々とお絵描きしている時間が長かったし、弟を主人公にした漫画はCampusノート17冊に達したし、引っ越しした友達と文通する際にも封筒の中いっぱいにイラストを描いて送り合っていた。家にパソコンが届いたらマウスを使ってお絵かきをしていた。ほうほう、そうだった。書きながら思い出した。
でも今は、詩や小説っぽいもの、文章を書くほうがメインになっている。
「絵を描くのが好きだった自分」が消えたわけでなくて、その上に今の自分がいる。ミルフィーユみたいに層になってる。
もしも並行世界が存在したとして「文章ばっかの自分」と「もともと絵を描くことが好きで今は文章メインで書いてる自分」がいたら両者は似て非なるものなんだろうなと思うんだ。
どっちが良いとかの話ではなくて。絵を描くときのイメージとか描き出し方っていうのは、意識していなくても文章を書く時の何かにつながっていて、ひっくるめて私が書き出す文章になる。
絵を描くことにおいては、もう満たされて、この身にしみていったんだと思う。
千の風になってあの大きな丘を吹き渡っていますじゃないけども、ミルフィーユ層を抱えた自分だからこそ生み出せるもの、たどり着ける場所が、誰にでもあるんだと思う。私だけの話じゃなくて、みんなそうなんだと思う。
番組名忘れたけど「オリンピック選手より才能あったあの人は今?」みたいなテレビ番組をちらっと見かけたのね。同じ教室に通っていて成績(タイムとか優勝回数とか)も良かったあの子はなんであの競技をやめちゃったんだ?みたいなやつ。で、やめた理由は経済的な問題であったり当人のモチベーションが消失したり別競技のほうが楽しかったんだよね、とかさまざまにあるんだけど、その人はその人でべつに普通に生活してるのね、当たり前だけど。才能って、純粋にスキルのことだけじゃないんだと思った。その才能を抱えて生きていく才能、とでも言いましょうか。自分の才能との相性ってことだな。たとえばすっごい才能あったとしてオリンピック行かなかったとしても、コーチなど指導者になってその人の才能を発揮させる人もいるわけでしょう。いやいややるからにはオリンピックって思うものなのかも知れないけど、その人にとってはオリンピックに出るためにその才能があったんじゃなくて、指導者となるためにその才能があったのかも知れないでしょう。あるいはいっそその競技にかすりもしない人生を送っていたとしても、やっぱりそれは「その競技において才能があった人によるその競技にたずさわらない人生」なんだよ。ずっとオリンピックとか競技の話してるとか絵とか歌とかもそうでない?スポーツよりは個人で続けやすいという特徴はあるのかもしれないけど。
なので「これが何のためになるだろう?」って考えずに、好きなものは好き。で良いし、「気づいたらこれやっちゃってるなあ」っていうものがあれば、それは「好き」以前に天性であったりするので、まあ続けていけばいいと思うんだ。
何もかもする気分にならない、俺はもう無だ・・・。
みたいな気分になっても、間隔の問題であって、ただしゃがんでるだけかも知れない。ジャンプするためにはしゃがむでしょ。だから「しゃがんでるなあ」って感じつつ、あほのようにホゲ~っとする時間を過ごすのも良いと思う。
わたしは全然心配をしていない。
何にも興味を持てない状態を続けられるほど人間って高度じゃないって思うんだ。
自分が原始的に好きだったものを思い出したり、ホゲ~っとしたり、とことん傍観者になってみたり、広い場所行って寝転ぶとか。
何かを好きな自分でないと好きになれないって呪いかもしれないのでそういうのから適当に解き放たれて楽になればいいと思う。
そうしたらあなたの前にまた新しい楽園があらわれるでしょう。
あやしげな勧誘っぽくしめくくる。
おわり。