no.417

あれからずいぶん時間が経っていたのに。くすくすと笑いだした。しばらくすると大きな笑いに変わった。さすがに知らぬふりを続けられなくなって怪訝な顔を向けた。そうするほうが適切だとぼくは判断したのだ。

おまえはぼくが振り向くのを待っていた。目が合うだけでふたたび笑った。つられて笑うべきか迷った。迷っているうちは行動に出ないほうがよろしい。

ぼくは琥珀糖を手に取った。
口に含むでもなく指先で転がしていた。
膝から下をふると猫のような気持ちがした。
それになったことはないのにそれのように感じた。

おまえを見るともう笑ってはいなかった。真剣な、優しい目つきをしていた。おや、と思った。ぼくは、それを、知っているような?それどころか、もっと、意味のある感情で受け止めていた日があったような?

夕暮れのグラデーション。いや、明け方の潮騒。名前も姿も知らない鳥の声。鳥だよと教えてくれた人がいたのだった。鳥だけじゃない。色だよ。食器だよ。花とか。鉱物。髪の毛。マニキュア。眼鏡。ガラスのペン。化石。これがルビー。サファイア。ダイアモンド。物知りなくせに。ぼくの名前は呼ばないんだな。そうやって拗ねたことがあった気もする。確かではない。

確かではないなら夢かも知れない。幻かも知れない。笑われるかも知れない。

だけど、それならそれで、いいじゃないか。
それが、いいじゃないか。

ぼくは思った風に口に出す。おまえは泣き出す。どれだけ、きずつけてるか、わかってんの。って。ぼくは数秒黙ったあとで、ちいさく言う。笑ったり泣いたり、つじつまの合わない奴だと。

少しうれしいと感じたためだ。おまえが泣くところを見たことがないと思ったからだ。

ああ、ぼくは、忘れてる。
たぶん、忘れている。
そうでなきゃおまえがぼくのことをそんな目で見るわけはないんだ。
ときどきは祈るように、ときどきは諦めたように。
すこしでも口を開くと微かな期待を隠しきれないでこっちを向く。
ぼくは大切な誰かだったんだろうな。
まだ何も思い出さないけれど、それだけで心地よい一日もある。

ところでさっきからぼくの手のひらにのっている、この宝石の名前は、なんと言うのだろう。

瞬間、光がとじる。
次の光を取り込むためにまた一旦暗闇に潜るんだ。
海に似ている。
後ろからされる目隠し、甘いにおい。
許して。
(ゆるさないで)。
罪を揺らして。
(わからせて)。
ふりほどけないものだと知っていたい。
それは。
二度と。
ほどけるんなら、また結びたい。
そんなふうに恋い焦がれたい。
彼方にあると思っていたもの。
手が届かないと信じたいのは誰のせい?

泣かないで。
(泣いていて)。
終わりにしないで。
(もう忘れて)。
ぼくを知っている。
(おまえだけ知っている)。
傷なんか怖くない。
ずるい手を使ってでも幸せにしてやる。