【小説】駄目人間失格

9年前に書いたこの話9年後。女性向け注意(ぬるい)

「ぶち壊してくれるんじゃなかったでしたっけ」
「え?」
改元ムードに浮き足立つ往来へ向けられていた視線がようやくおれのほうに戻ってくる。
(変わらないな)。
9年前のあの日も、このひとは、こんな目をしておれを見上げたっけ。
カフェオレじゃなくていいんですか、と訊ねたおれに、ぼくはブラックしか頼まないと別人のようなことを言う。
そうでしたっけ?
首をかしげるおれの前で、大量のシロップとミルクが投入される。
唖然とするおれを尻目に「なんだ?甘いものを止めたとは言ってない」と平然と言ってのける。
見ているだけで胃がもたれそうだ。
「いやいやいや。健康管理をちゃんとしましょうよ。おれたちもうそんな若くないんだし」
「野々宮の分際でぼくの嗜好にケチをつける気か」
「すいません」
「あとぼくおまえが思うより若いから」
「……ふぇ」
「変な想像するな」
「すいません」
しばらく当たり障りのない話をする。
ジェンガみたいな会話。
これを抜いたらすべてが崩壊する、とわかっているところにはあえて近寄らない会話を。
だけど無難な話題のストックが底をつく前に、おれは意を決した。
「別れたんだな」
「……えっ」
先を越されてしまった。情けない声が肯定の代わりだった。
なんでわかったんですか。
さっきおまえが言ったんじゃん。
(なんだ聞こえてたのか)。
「ぼくによってぶち壊される前に自分でぶち壊してんじゃん」
「……ぐう」
「世話ねえし」
「……ぐうう」
ちいさく唸ったあと黙る。
「おまえ、ぼくに何を期待してんの。9年もあれば、人の気持ちは変わる。ぼくだけ変わらないとでも思ったか」
枯れちゃうし、と付け足してストローに口をつけた。
はやくも飲み干しかけているようで、氷が崩れる音がする。
「あと一歩遅かったらどうするつもりだったんだ?ぼくもう少しでおまえのこと忘れそうだったんだけど」
忘れそうだった、か。
忘れずにいてくれたんだな。
胸がジーンときた。
にやけそうになるのをぐっと堪える。殴られる前に。
「おまえのやってること客観的に見てすごいひどいやつだから」
「主観的には?」
「水ぶっかけるぞ」
言うが早いか冷水を浴びせられていた。
周囲の席から「おお」と声が上がる。何の「おお」だ。応援の「おお」だと思おう。片手を上げて応えるおれに、目の前の人は不満そうだ。
「そういうとこだぞ」とか思ってそうとか思ってたら言われてしまった。
たぶん、こういうとこ。
「まあ。ぼくがおまえを好きだったのは事実だし。期待、する気も分からないじゃないけど」
勢いよく顔を上げたらなぜかテーブルの下で膝を打ってしまった。
目の前に指輪のはまった薬指がある。
「これ、フェイク」
「フェイク?」
「おまえに心配かけないように」
「おれに心配?」
「ぼくだって、後腐れない人間関係ばっかじゃないから、たとえば通りを歩いてばったり出くわした人物におまえだれだ?とか絡まれることがあるかも知れないとは心得ておけ」
「どんな相手ですか」
質問には答えてもらえずしばらくの沈黙。え、怖い。
ま、いろいろあったんだよ。
おまえが世に言う幸せな家庭とやらを築いてる間にな。おまえにもいろいろあったと思うけど。
引きずってたら、枯れちゃうし。
うう。
「あと、惚気話聞かされると思ってたから」
「惚気話?」
「野々宮は失敗しない男だったと思ってたんだよ。そう見えてたんだ」
「皮肉でも光栄です」
でも、と目の前の人はグラスのふちについたシロップに気づいて指先ですくい。
「悪いな、おまえの不幸は蜜の味がした」
見せつけるように舐め取った。
「野々宮」
「はい」
「ぼくは本来なら同棲に向かないんだからな。今まで何人の男女がぼくの生活ぶりに耐えかねて去っていったか」
「…はい」
「春から秋にかけては節電のため戸口を開けっ放しにする。そうすると虫や空き巣に入られ放題」
「…がちでだめなやつ」
「冬に炬燵もつけないし靴下も履かない」
「…でしたね」
「お腹が空いても自炊はしない。まあ、たまにきゅうりの塩漬けはつくるかな。気づいたらカビ生えてるけど。あと、散らかってないと安心できない。家賃はときどき払えてない」
「駄目人間すぎる」
「どっちが」
「…すいませんでした」
人を傷つける道を選んで、自分のほうが痛手を負って、かつて優しかった世界に甘えようと舞い戻った、おれのほうが駄目人間か。
「謝らなくていい。ぼくは、おまえに、9年分のわがままを引き受ける覚悟を持てって言ってんだ」
ん?
んん。
んんん!
投げつけられた言葉の意味が魂の底にスコンと落ちてきて、おれはヘドバンするみたいに何度も頷いた。
さっき頭からかけられた水の雫が、きらきらと飛び散った。
こみ上げる幸せを少しでも相殺したくて、苦しくなるまでコーヒーをあおった。
駄目人間は、どっちなんだか。
きっとどっちもだ。
けどこの人と一緒にいたら少しでもまともになろうと思えるから、おれが先に脱却しよう。
駄目人間、失格。
9年分。
覚悟を持てなんて、言われなくてもこのズボラがすぎる年上をべたべたに甘やかしてやろうと思う。
(脱却はまだ先かも知れない)。