【雑記】優しさが優しいとは限らない。

闇の力ぽいものを、軽視したり忌避したり、ましてや打ち消そうとして抗うことはないように思う。楽しいという気持ちや好きだという感覚を自然なものとして受けいられるように、その逆もまた受けいれなければ、人として嘘であるように思う。それは自分にとって好ましくなかったり、一見不利であったり、周囲に露呈したら恥ずかしいことのように思われる。そういうわけでひたすら隠したくなるかも知れない。だけど、どんな感覚であれ生じたからには自分がそう感じたはずで、しかも意外とまじでこいつをうまく利用することで、より良い方へ、より高みへ行けることがある。コンプレックスや、嫉妬心など。復讐心とか、あいつを見返してやるんだという気持ちとか。こういう感覚は抱いていても仕方がない、際限がない、そんなもの捨てて自由になれという人にたまに会う。きっと誰でも。だが、そんな時は、果たしてそうだろうか?と、思って欲しい。それは自身の中にある「こんな感情捨てたい」「苦しい」「恥ずかしい」に一致するので、その人のいうことはさも正論であるように感ぜられる。その人こそ自分を正しい方向へ導く救世主なのでは?とすら思う。だが待てよ、と、ふと思って欲しい。それ以前に。その感情が、感覚が生まれたのは何故か。それをよく知りもしないで「自由になりたい。解放されたい。美しい心の持ち主になりたい」と思って捨て去っていいのか?てか、できんのそれ?幸せを噛み締めている時に笑うなと言われたら腹が立つように、マイナスの感情が湧いた時にそれをただちに捨てろ解放されろ自由になれと言ってくる人物に対しても、また反感を抱かないと嘘では?どちらも自分のものだからだ。助言してくる人がどれだけ善意で、または悪意で歩み寄ってきているのだとしても、思考の持ち主はいつだって自分だし、自分でなければならないと思うからだ。すぐに共有して分かち合って励まし合ってたしかめあって舐め会うような、絆。絆って、きもちわるいや。って、わざわざ口に出す必要もないけど(なぜなら本心から絆が必要な人もいる)、違和感を抱いて欲しいんだ。もっともらしくても、正しくても、優しくても、好意的でも、善意でも、一瞬「うーん。それは、どうかな」っていうのを。他の種類の感情と分け隔てなく、難しいのだとしても、自分に生じたものであるなら、全部なにかのメッセージだとして、自分だけで受け止める夜があって欲しい。すぐに救いを求めるのでなくて、それぞれひとりで泣く夜があって欲しい。雑多なようで、潔癖すぎるよ。ごちゃごちゃしたものに対して。シンプルなものは羨ましい。しかし簡単に操作される。俺の人生に口を出すな、くらいの気概は、心のどこかにあるといい。