【小説】レアチーズケーキの恋人

ぼくからあなたへ届かせたいことばがあるように、あなたにもぼくへ届かせたいことばがあっただろう。口にすると魔法が消える気がして手紙を書いた。何通も何通も書き直しているうちに、けっきょく何が言いたかったのかわからなくなった。自己満足だろう。

もともとぼくに、ことばなんか、なかったんだ。

冷蔵庫にふたつならべたレアチーズケーキからいっこを取り出しお皿にのせたら、なめらかな表面にフォークで傷をつけていった。

初めてあなたの手首を見たとき知ったんだ、ああ、このひと、ぼくで元を取ろうとしている。

生きていることを試すためにどうしても血を流さなくちゃいけなくて、その血は他の何より優しくて。完璧じゃないあなたを完璧にしたことだろう。試すだけのために。答えはないかもしれないのに。だけどあなたには必要なことだった。

できるだろうか。
ぼくにできるだろうか。
あなたの元を取ってやれるだろうか。

なれるだろうか。
ぼくになれるだろうか。
あなたが欲しがった未来になれるだろうか。

「ただいま」

ぐちゃぐちゃのレアチーズケーキをみつけたあなたが目を丸くする。色素薄いなあとぼんやり思う。嫌われたくないなあとぼんやり思う。好きだなあとぼんやり思う。死にたい。見られた。死にたい。本当は生きたい。あなたと生きたい。

「……どうしたの」
「レアチーズケーキ」
「うん」
「ぐちゃぐちゃにしちゃった」
「そうだね。見ればわかるよ」
「あなたのは、無事だから。冷蔵庫にあるよ」
「うん」
「あなたが」
「うん」
「このレアチーズケーキじゃなくてよかった」

完璧に生まれてくるものはいっこもない。みんなどこか欠けていて、欠けているものを埋めるために生きる。みつからなくて絶望することもある。永遠にみつからないとしか思えないこともある。途中でひとやすみしたり、音楽を聴いたりするんだけど、気持ちが晴れなくて、深い谷をのぞき込んだりする。べつのひとが同じようにのぞき込んでいて、魅せられたように落ちて行く。名前も知らないだれかが。

「ふたりで食べればいいんじゃないかな。そのレアチーズケーキ」
「え?」
「いっしょに、食べようか?」
「いっしょに?」
「そうそう。そんで、冷蔵庫にあるもうひとつを半分こしたら、おあいこになると思わない?」
「……思う」

落ちていく、おちていく。空から降る百のことばがいまぼくやあなたに触れてる空気に溶けていく。見えないけれど、見えている。目じゃないところでみえている。ことばがそこかしこに溶けていく。

蛇口で光る水滴に、ハーブを育てるベランダに、替えたい壁紙に、右だけすり減った靴底に、太陽から静脈をかくしていた開いた襟に、あなたが連れてきた青い目した猫のしっぽに、溶けて、まるい陽だまりに変わる。

ひとつになろうとして、ばらばらだったことを知った。ばらばらになったとき、ひとつだったと知って泣くのかな。

そんな予感を、噛み殺した。

届けたいことばを、届けるすべは無数にあって、眉間にしわを寄せなくても容易いのだと、かつてぼろぼろだったあなたがぼくに教えるから。