誰もぼくに気づかない夜、誰も傷つけなくて済むからあなたに会いに行こうと思った。
わかってる、どうかしてるぜ、空気は澄んでもシュノーケル。口の中でゴムを噛み続ける。そうしていればいつか消えてなくなるみたいに。ほんとは信じていないんだけど。信じたふりをしてあなたを油断させたいだけ。
ぼくが好きになったものがいつまでも輝いて見えるのは、ぼくが今も好きでいるって証かな。認めたくない。だってそれはもうぼくのものじゃない。分かるんだ、傷なんてつけられてなかったって。
ノック・ノック・ノック。
ふざけているわけじゃない。あなたが水中を泳ぐ時そうであるように、ぼくには今これが必要なんだ。
ノック・ノック・ノック。
出ないでいい。出ないでくれよ。委ねるぼくは昔から弱い。目の前のドアが内側から開けられるのを恐れてる。夢に見たのに。涙が流れたのに。プラスチックの恋。チープじゃなければ大切にできたのかな。嘘だよ。どうかしてる。分かっているんだ。しあわせじゃない。そう言われても。連れ出せないことくらい。分かっている。
これが最後だ。
ノック・ノック・ノック。
3度目の音が外れる。
左目の下を腫らしたあなたが出てくる。ぼくたちは鏡で自分を見るように無遠慮に互いを見つめた。
「えっと、ぼくのほうが、まだマシかも」。先に口を開いたのはぼくだった。どうだろうね。あなたは小さく首をかしげた。「どうしようか」。まず、その、馬鹿げた格好をやめろよ。「わかった」。だからってここで脱ぐな。「わかった」。なんでここが分かった?ストーカー?「まあ、そうだね。……あのひと、殴るの?」。たまに。「いやに、なんない?」。すぐに忘れるんだ、おれって、バカでさ。「知ってる」。おい。
「……ぜんぶ、消して、やろっか」。
は?怖い怖い。勘弁なんですけど。「いや、その、傷」。はぁ?「ぼく、実は、魔法とか使えて」。やめろ、そういうの。キモイんですけど。「ごめん、笑って、くれるかなって」。ぜんぜん笑えないから。
そう言ってあなたはちゃんと笑うんだ。よかった、理性の、言いなりにならなくて。あなたが、笑ってくれて。
よかった。ほんとうに、よかった、わすれなくて、よかった。
よかった、あなたが、今、ちっとも幸せじゃなくて。
ベランダのむこう、火星が、きれいだった。きっと、あなたの肩越しに見るからだな。ぜんぶ、消してやろっか。