【小説】ゆきのこども

夜を一針ずつ縫っていく
これがぼくの仕事
朝になるとぐうぐう眠る
右手の指は藍色に染まってる

次に目覚めたら探そう
これはきみが生まれた夜

お母さんはたっぷり泣いたあと
きみのことをじっと見下ろし
その一度に一生分の愛を込め
雪の中に置き去りにした

きみがこの世で最初に見たものは
自分に向かって降りかかる雪だった
それは誕生してすぐに
ばらばらになったきみの兄弟姉妹

この世界はね
かなしいの
みんなが私たちを見て
きれいだねって言い合うくらい

だからすぐ溶けてしまう
ようにしているの
そんなわけないじゃない
そんなわけないじゃない

きみは雪の声を聴くことができた
それはまだ誰も獲得していない能力で
もしそのまま少年になることができて
望むのならばどんな人の子にだってなれた

数日後きみは歩き出した
野犬がきみを襲おうとしたので
雪の言葉で文句を言った
雪は神さまのものだから野犬は消えた

きみは五歳ではじめて人間に会った
それは知らない言葉で喜びを表現した
男は有名な学者で
きみを街へ持ち帰った

きみにはあたたかな
ベッドとスープがあった
ミルクとフォークがあった
本とソファーがあった

きみの前歯がぐらぐらし始めた頃
きみのお父さんが逮捕された
ある場所からこどもの死体が
いくつもいくつも発見されて

きみは被害者として
保護されそうになった
だからきみは逃げた
逃げる場所はあの森しかない

ベッドを知ったきみに洞穴で眠ることはできない
ミルクを知ったきみに川の水をすくって飲むことはできない
フォークを知ったきみに獣を仕留めることはできない
本を知ったきみに雪の声は聞こえない

そんなわけないじゃない
そんなわけないじゃない

雪はきみを覚えていた
冬のある日ある地域では雪がおかしな動きをした
天から地ではなくて地から天へ降ったのだ
それはきみを軽々と持ち上げて空高く連れてった

きみはもう見えない
木苺が見ていたのに
きみはもうここにいない
冬眠のくまだって春を待つのに

ニュースが流れ
きみは忘れるための儀式にかけられる
独房の男だけがきみを少し思い出した
長い拷問の果てに夢を見ながら

こんな夜でも一針
あんな夜でも一針
ひとりの夜は一針に過ぎない

それ以上になることがない
それ以下になることもない

きみがここへ来てぼくを手伝うのなら
かわりにぼくが行って見てこよう

きみが会えなかったお母さん
きみを守れなかったお父さん
きみに巡り合わなかった初恋の人
きみを知るよしもない未来の伴侶

そうだ、
なんならお気に入りの本をお土産にしよう
あの学者の本棚にあるものにはすべて
何度か目を通しているんだろう?
なあ、何がいい?


……
………

困ったな
無視しながら泣くなよ
いや、泣いていい
泣いていいんだ
今夜は地上で雪を見られる
ぼくにとって生まれて初めてのことだ

6+

no.348

ラストパスの輝きに憧れて、空気中の水分が凍る。ぼくの手から逃れた毛糸玉が、坂道を転がっていく。追いかけもせず好きにさせておけば運命のひとを教えてくれるだろう。ままならないハプニングだっていいものだ。なぜってそもそも支配なんてできていないから。自分で考えたように感じているだけで、お天道様はすべてお見通しだって言うんだろう。それならそれでいい。もしそうならそれもいい。机からはみ出したシャーペンの芯、スケッチブックから飛び出した曲線、フライパンから出発した双子の目玉焼き、鳥かごを脱出した誰かの青い鳥。二度と見つからなくたってゲームが終わらなくたってぼくはひとりでも笑うことができる。神様みたいだとか天才だとか欲しいと思ったもの欲しいままにして、だからって飽きずに絶望もせずにいつまでも新鮮な気持ちでわくわく目を輝かせていられる。蛇口をしめるようにして世界中の流血を減らせるし銃身からマーブルチョコをあふれて止まらなくすることだってできる。きみが不可能だといえば言うほど、あなたが無理だと笑えば笑うほど、ぼくはそれを実現する能力に恵まれる。空中に霧散するマリア、まぶたの裏に百合ばかりの棺をつくってあげよう。法則を捕まえたら黒猫は何度でも息を吹き返すだろう、それをぼくが忘れない限り。愛に終わりはない、恋に偶然はない。ママレードの粘度で切り離されたおまえの朝と夜を今またくっつけてあげるからね。

2+

no.347

ありきたりな文字を肺に詰め、ありきたりな言葉を創作している。いつまでもとどまらないものを吐き出し続ける僕を、霧の向こうからいつかの僕が見ていた。その景色が今僕の中に形作られ、体験が思い出になる。そのせいですっぽり抜け落ちてしまったものもあるんだろうが、思い出せないなら哀しくはならない。機械的な反芻と目の前の現実。あなたを好きでよかったと言われたい。中身が何度入れ替わっても思いが帰る場所は変わらない。それを隠すために変化を続けてカムフラージュしているんだろう。望めば手に入った時代、何かに飽きることはなかった。誰かにとって都合のいい存在になることは、僕だけの秘密を持てるということ。軽視してはいけない。唇が水と空気を欲しがっている。誰もそれを持ち合わせていない。夢は今もどこかにある。訊ね方を間違えなければ、もう何も失うものはない。

4+

no.346

朝が来て橙をひけらかす
乾いた涙の行方は頬も知らない

きみに、
きみに生きていて欲しくない。

白い鳩が目線の先を旋回する
繰り返しに怯えない魂は
逸脱するたびに蘇生させられる
命の貴重性は本当の理由にならない

冷めた目に映した世界で
きみの叫ぶ理由なんかほとんどないんだ
意味の作成と再生産
盗作されてレプリカが輝くだけ

半分ずつ引き上げられる音階
美しいなんて言わないで
ぼくには見えなかったもの
そのために生きようとしないで

陽は沈む
夜は分断される
道は続く
祈りはつながる

それだけを覚えていて
それ以上でぼくを満たさないで

2+

no.345

心がいっぱいになりそうな時、ぼくはいつもまぶたを閉じるようにしている。そうして自分をちいさなコップにしてしまう。好きなものでも嫌いなものでも多過ぎるとあふれちゃうんだ。ぼくはどこまでもひろがる無限の宇宙じゃなくてほんのひとり分の庭だから、手入れのできる数の花にしか咲き誇れよとは言えない。たまに垣根越しに大きな瞳がこっちを見ながらよぎることもある。彼には彼の庭があるんだろう。そしてそれはぼくのものより大きいかも知れない。きっとそうなんだろう。だけど彼にだって限界はあるはずでそれをちゃんと守っているはずなんだ。甘いまやかしはマカロンみたいな多重構造でぼくたちの大切にしている思い出を脅かそうとするんだけどちゃんと戦略を立てて挑みたい。蝶々に姿を変えられたあの巡査が木陰で休んでいる。羨ましい日もあるよ。あなたの生きた時代をぼくは知らない。あなたの声が、耳に残っているだけ。あなたに流れた血が、ぼくの内側にも流れているだけ。愛なんて知りたくなかった。それにまだ名前がついていないあいだ、どれほどぼくは自由だったろう。考えても仕方がないことだけれど。終わりさえ飲み込んだ夜が始まる。迷子のかざすランプだけがこの世の光だ。誰もどこにもたどり着かないという公平が朝の出番を遅らせる、これからは長い夜だ。

2+

no.340

あかりが一つあるだけの駅
フレアスカートのような光が
行くあてのないことを教える
他は一縷の道筋も見えない

暗い部分にあるものを
得ようと出かけた仲間の消息
残されたラジオが何も告げないのか
ぼくが壊したせいで何も届かないのか

ただの迷子ごっこだよ
いつか漫画で読んだことがある
これはぼくが選んだ展開
つまり望んだ状況

線路が震えている
音が次第に大きくなる
魔法のように現れて
ぼくは目がくらむ

フレアスカートの
外に隠したきみの遺体
その手からもぎりとった乗車券
何食わぬ顔をして車内へ踏み込む

きみの目が鈍く光っていた
置き去りにされること
知っていたんだ
分かっていたんだ

空いている席に腰かけて
しばらくすると涙が出た
じきに止まって乾き始めた
窓にぼくは映らない

どこまでも
いつまでも
だれとでも
なんどでも

きみに雪が降るだろう
柔らかく厚く積もって
やがて結晶になる
いつかのぼくみたいに

1+

no.339

怖かった?
ねえ、怖かった。
それはどんな色をしていた。
どんな形、手ざわりだった。
まわりの人はどんな表情をしていた。
それから、きみは。
きみは、どんな気持ちだった。

広場には笑われながら踊るピエロ
向かいには生まれつきのプリマドンナ
ぼくには見える
ヴェールに匿われていた姿が

怖かった?
ねえ、どんなにおいがするの。
どんな声を上げるの。
誰かの名前を呼んだり、祈ったりするの。
彼らはきみを睨むの。
それとも命乞いを?
きみは、怖くなかった?

騒がれてはいけなかった
カナリアの喉を締めた
ぼくにあの音楽を聴かせないよう
だけど死んでまでぼくから逃げないよう

怖かった。
ああ、とても、怖かった。

ハンバーガーを包んでいた紙より軽いんだ
食べ損ねたフライドポテトより柔らかい
その時どんなに綺麗な夕焼けだって関係ない
みんなの神さまはいつも遅刻をする

どうして消えないか
どうして消えてなくならないのか

ぼくの行いは後世の娯楽になるだろう
きみの詰問まで含めて
すでに誰かの物語を生きている
ここでは詩だって読み飛ばされる台詞になる

ご冥福なんてあるわけない
葬いは参列者の井戸端会議
念入りだった化粧を落としたら誰ももう
ぼくを捕まえられず罪は贖われることがない

2+

no.338

僕の大切な人が大胆な事件で窮地に陥った。夢を叶えた秘密基地を捨てて夢にまで見た逃避行だ。この街のビルは高くて細いから路地がたくさんできていて全部違うところへ繋がっている。満天を凌駕するネオンの破裂に食べ物の匂いとぬるい息遣い。視線でつくられたネットワークが家畜を囲って花は静かにほころぶ。僕たちはべつにここでなくても良かった。毎日眠りに落ちる前に口ずさむ歌の中にあるような、青い森の出口にある村でも。辺り一帯暗闇で肌に文字を書いて感情を伝え合う世界でも。限りあるものを平等に分けようとして僕たちはしばしば失敗をした。それなのに燃えない本がいつまでも生臭い理想を掲げるから成長しないったらなかった。こんな時間、壊したって何になるの。こんな命、守ったくらいで何になるの。伸び切った前髪が風に吹かれて瞳の色が見えないまま、僕たちは通じているかも分からない言葉を飽かずに投げ合った。迷いたくなくて握りしめた手が、いつか鬱陶しいものになる日まで。僕は、僕だけは、大切な人をちゃんと最後まで食べてあげたい。

3+

no.337

ブランケットの波間で目を覚ます。感覚がひとつずつ目を覚ます。オセロのように消えていく思い出のようなもの。透き通った色。音のような色。ぼくはずっと昔、こうすることを許されていなかった。たとえばの話。仮定。今を幻だとする作業。ぼくはずっとあとになって知るんだろう。何も不足はない。何も悲しんでなどいない。きみには分かってほしかったけど。もう何もいらないと気付いたんだ。きみの理解でさえ。どうしてそんなに強いのと問いかけられる。たぶん逆だよとぼくは答える。自信なさげに、あるいは、淡々として。だって逆なんだよ。ゼロからマイナスになる恐怖に負けたんだ。ぼくはね、きみの思っているよりずっと確実にからっぽなんだよ。「へえ、そうかな?」。二つの眼球が液晶画面にくぎ付けになっている。でもよく見るとその瞳孔は微かに変化を続けている。セラミック越しに重なる世界。閉ざされた離島での実験。手のひらに丸まっているサテンのリボン。破裂した青が空を染めていく。ねえ、なんだった。ぼくたちの住んでいた番地。学校の名前。足を引きずっている男。何を選び取って何を捨てたんだっけ。今は実験のさなか。割られた鶏卵からぼくのずっと捜していたものが転がり出てきた。悲鳴ひとつ響かない。こんなこと、再生するまでもない、一度見た映画のように知っていた結末だよ。勝手な妄想だって一言で片づけてしまえばいいんだ。

3+

no.336

誰にも負けないくらい好きなものなんてない。その気持ちで負けないくらいのことなんてない。だから始まらないんだと思ってた。だけどそれは始めないことの言い訳だった。ぼくには欠けているものがない。羨む他人さえいる。べつに不自由はない。不便もない。きみは嘘が下手だ。少なくともぼくにとってはわかりやすい。だから本心は見えているのに、ぼくのすべてを使っても暴けないなんて。でも手品師になれない。何より誤解をされたくない。逆に暴かれて拒絶もされたくない。今まで欠けているものはないと思ってた。それはそれで間違いではない。でもきっと気づくものなんだ。何が足りなかったか。何が欠けていたのか。気づかないままなら幸せだったと思う、まさか。そんなことはない。だけどこの状況を怖いとも思う。ぼくは助けの求めたかたを知らなかった。どうしていつも悲しい顔をしているの。きみがぼくに声をかける。もったいないよ。せっかくきれいなのに。初めて自分を汚いと思った。初めて自分を醜いと思った。何もないと。何も持っていなかったと。夕陽がきみの眼の中でとろけている。この恋の結末がどうであれ、その光は永遠にぼくに味方する。

2+