no.116

置いて行かれたと気づくのに何年もかかった。その間に僕は大人になったしそれなりの罪と罰も知った。神様は今も鎖をつけられたまま紙袋に入れられてクローゼットの奥のほう。願えば願うほど遠ざかるなんてどうかしてる。発狂したひとを書いた本を読んだ。そこには何の違和感もなく、ただただ好きなだけだったんだ。皮に触れるたびその下にあるものに思いをはせる。嗅覚の無いことは本当に幸運だった。隣人の間ではそろそろ話題に上る頃だろう。いま誰に会いたいかという質問は僕を困らせる。最後の質問のときにも今と同じように僕は困るだろう。そのことは質問者の日常に少し影を落とす。やがて消えていくんだけれど。ひとつひとつ抱えながら生きていけない。落とす。拾う。それが繰り返されるということ。それに馴染めるかということ。知らない言語が到達し続ける。拒めば冷徹になる。初めてお互いに分かり合えたとしても僕たちはひとつにならない。こんなにたくさんの美しいものが溢れた朝も、その日の夜も。愛を語るひとは縋るものをさがしていた。愛を知らないひとがまだどこかにいないか、それだけを考えて生きていた。ある人にとってはそれが凶器になるとも知らないで。何年も何百年も眠った後にまた目を開ける気になれば。また、また。ごきげんよう、ごきげんよう。どうかお元気で、よろしく。さようなら。はじめまして。ありがとう。では、また。

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no.115

いくつになっても誰も好きになれない自分に怯えながら眠った翌朝は隣室の叫びで目をさます。おやすみ設定をしていたエアコンが約束通り切れていただけなのに何かに裏切られた気分になる。朝日が差し込んで、きれいだな、と思うより先に裾にはびこった黴が目に入る。何も美しいことなんてない一日が始まりかけている。終わる前から終わりがわかると思ってしまう。そしてそのとおりになる。そう思うから。願いだと勘違いされて。べたつくリモコンを操作してテレビのチャンネルを切り替える。ましてやそこに答えなど見当たらない。真新しい入道雲を見ていると、自分が、何か、とてつもなく間違った方向に向かっていると思う。あの頃は良かった、だとか。同級生からの招待状に欠席の返事を送る。ハガキを入れる前と入れた後でポストの赤みが増したのはたぶん気のせい。ちいさい子どもを守るために車が道を外れる。対向車線をやってきた車とぶつかってバンパーが吹っ飛ぶ。それが民家の屋根についているアンテナを折る。野良犬が反応して飛び上がる。新しくできたコンビニエンスストアの新しいバイトが初々しい笑顔を見せる。それがいつか本心じゃなくなる日を待とう。みんなのかわいい夢とか健気な努力がはやく裏切られると良いのに。はやくお話しようよ。危なくないままで。危なくなりうることを。角の喫茶店が改装されていた。手書きのメニューボードに得体の知れない生き物の絵。スパイへの暗号。僕は何も解読できない、何も。暗号でないものでさえも。輪っかは丸いから入口がわからない。でも出口だってわからないだろうということで気休めとする。誰も出られないさ。足元から吹いた風に舞い上がるチラシにすべての結末は書いてある。懐かしい入道雲より遠くへ飛んでってそれはもう掴めない。あの入道雲はずっとあのまま待っていたのかな。消えずに見ていたのかな。遠慮なくいろんなものを吸い上げてくれたね。満足するまで噛み砕いたら午後のゲリラ雷雨にでもしたら。

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no.114

今日もどこかで誰かが死ぬ
優しい夏の朝の始まり
鳴き始めた蝉が産まれた日
僕はどこで誰を見ていただろう

手段がないということ
それでもお腹が空くこと
たぶん何者にもなれない
空はあの日と変わらない

窓硝子越しに見えた過去
簡単な言葉でつづった
封の剥がされた白い手紙
きみだけが泣いている記念写真

新しくなることを拒めない
成長痛を受け止めたみたいに
平気というには退屈すぎる
姿の見えない声に囲まれてうずくまる

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no.113

あの手この手で
かみさまが忠告をする
やさしい子どもの姿で
つかれた隣人の姿で

愚鈍を演じること
そのまま成り切ること
繊細を匿うこと
どれも正解にはならない

仮死の夜
食べたものが臓器に馴染んでいく
郷愁に耐えかねて帰ってきた
きみはまだ泣くかな

置いていかれる心
腐敗する骨肉
光るはずのない手のひらの宝物
降り積もるはずのない真夏の夜の雪

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no.112

かわいいハートを送り続けることで
かわいくなれるんなら苦労はない
一方的であることは健気だけど
必ず報われるとは限らない、当然。

僕がどんなに好きと思っても
声に出さなきゃ分からないだろうし
声に出しても伝わらないこともあるし
伝わったとしてもかなわないかもしれない

否定の仮定で自問自答する暇はないって
みんな他人事だから親身に聞いてくれるけど
本当に助けたいと思われる価値があるかどうかって
僕自身でさえ曖昧で斜めに首を傾げてしまう

往来で魔物に出くわした時
その言い分に共感してしまうことがある時
自分の中にも同じにおいを嗅いだことがある時
眉をひそめる人々に密かに反発を覚える時

いつか同じことをしでかすんじゃないか
次は自分の番じゃないのか
善良という大義名分に守られた不躾な目に
次に晒されるのはきっとこの身じゃないのか

その時に取り返しのつかなさを悔やむとして
そうでもしなければ何が必要だったか
何に必要とされていたかあるいはされていなかったか
測る術は無い、とでもいうのか?

過去をひっぱりだしてくるまって眠る
りんご飴の艶やかさと見知らぬ人の生ぬるい掌
僕が気づいたことに気づいてどこへも連れ去らなかった人
今どこで何をしているんだろう
近い未来における僕の姿であるような気さえする

軽快な祭り囃子に脈は乱される
真顔で訴えると笑われるから先に笑う
何世紀も続きそうな集合と離散
疑問符を浮かべないことで勝敗は決する

吐き出してしまえば救いは不要と判断される
一瞬一瞬を蓄積していくまどろっこしさ
正解というものに出会ったことは無い
だからたとえすべて間違っていたとしても僕はこの思いを捨てられない

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no.111

雨雲の中に橙色の升目
ひととひとの暮らし
僕は目を凝らす
一人称の変換にもそろそろ飽きてきた

積み重ねた一秒一秒
僕はいつも笑っていた
今そのどれも手に入らないと知っている
歩く人影がこちらに気づいた気がした

体温は邪魔でしかなかった
浴槽に水をためる意味がわからなかった
いつも自分が間違っている気がしていた
誰かと比べてではなくここにいることが

一本の木を森にたとえ
点滅する電波塔にメッセージを読み取ろうとする
僕が世界にしてきたことを
世界が僕にしているだけだというのに

あたたかい食卓とぞんざいなやりとり
そのどれにも羨望を覚えなかったことはない
僕は本当にいつもそれを欲しがったけど
口は歪に引き攣って一度も言葉にならなかった

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no.110

とにかく生きていることだけが大事ってきみに言えない。新しい臨時ニュース。死者の年齢をわけもなく足していく夜。何かを足蹴にしたような背徳感。みんな同じように感じる生き物ならいいのに。不幸をつくるものは差だよ。そしてその認識。綺麗な言葉に持って行きたくない。ここでやっと終わりってきみを安心させたくなんかない。

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no.109

ぼくは誰なんだろう。どこからきてどこへ行くんだろう。どこからも来ずどこへも行かないんだろうか。マークをつけてわかりやすくしとかないと、好きってことにさえ確信がない。この問題を難しくしているものはなんなんだろう。そもそも問題はあるんだろうか。答えが出てもどこでそれが正解だとわかるんだろう。わかったとして何を証明したいんだろう。時間が過ぎることだけ信じてる。ゆうべ降った雨の中にきみが流れて行ったよ。都会に出て行ったきりもう会うこともないと思っていたきみの。青い泡に押しつぶされて勝手に呼吸できなくなったんだよね。わかるよって言われることが嫌いなきみはじゃあ何が好きかを教えてくれなかった。いま思えば教えてくれなかったんじゃなくて知らなかっただけなのかもね、きみも。ぼくも。もうすぐ終わりが来てぼくの情報は消える。当たり前扱いされてる無数の星座も今夜は早めにスイッチオフしていつものポケットに返してあげる。

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no.108

電球の切れた部屋を青い閃光が照らす一瞬
何もかも虚構じみていると思う
同居人が目を覚ました気配がする
目を覚ましながら横たわっている

感じていたのだ
ゆっくり腐りかけていた骨肉がとろけ出すのを
まろやかな眼球は先に流れ出したけれど
その他は時間をかけてまろび出る

羨ましかった者を思い出せ
それが僕のなりたかったものだ
栄養も満足に取れない
縫い合わせた口唇では

優しかった名前を思い出せ
それは案外呪いになっていたりするものだから
減るものは増えるけど
そこから書き出せる詩だってあるはずだ

惜しむほどの時間はない
想像くらいはできるだろう
間違うくらいは比じゃないだろう
何をしているのかを意識しておくことだ

光がふたりを探している
罪と罰はアンバランスだ
不在と名付けたい部屋で
死者が横切るのを今朝も見た

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no.107

いつの間にか眠りに落ちていて、ふと目を覚ましたら平日の午後、窓から吹き込む風と扇風機の発する風とがぶつかり合うところで呼吸がかすかに不自由に覚える境界、淡い光の中で読んだものがどれだけ生きる糧になるか考えたことがあるか。似ているところを探して見つけ出せた数だけ命が伸びるような勝手なルールの中で、年老いる前にここから奪われていくひとに寄せられる嘆きを、それに加えて隠しきれない期待の眼差しを、羨んだとしても絶対に口にできないときの不自由さが分かるか。裏切る自覚もないまま裏切る。ひとはどこまでも置いてけぼりにされる。土が削れる音。次の花の咲く音。歩み寄られることを拒み続けて望み通り静かになった部屋。空中を浮遊する虹色の金魚が幻であるとまだ認めたくないのにもう拭いきれない敗北感は血に似ているね。止めたい時に止められない。止めなくても死なない。順番が決まっているんだろう。どこかにノートがあるんだろう。ぼくが本当は綺麗なものを好きだと言っても笑わないで。だからきみを忘れなかったと押し付けがましく主張したって。笑わないで。もし、笑ったとしても、ときどき思い出してその時だけでも信じて。
ゆっくりのたうつ尾びれの影まで虹色だ。

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