No.720

あなたは知らない。ぼくより多くの景色を見てきた、あなたにだって知らないことのある。ぼくだけが知ることのある。寝返りを打つ。耳の後ろにかすかな傷のあること。やがては消えてしまうだろう。だけど今はここにあること。ぼくが言わない限り、ぼく以外のだれも知らないまま治癒していく、そんな傷の。鏡に映るあなたは左右が入れ替わっているんだ。写真に映るあなたもそう。世界でただ一人あなただけが知らない。あなたはあなたに会うことがないから。あなたはあなたを抱きしめたり、あなたの背中に寝たりしないから。境遇も違う、恋の形も違う、初めて読んだ物語に涙する、その一粒一粒を拾って磨いても、肌のある限りとっさに捨ててしまうだろう。斜めに見下ろす知らない命、ぼくのもとに生まれなかった魂が、ありふれた光の中で幻みたいに輝いている。雨上がりの街はぼくたちを追い出さない。ぼくたちだけじゃない、潜む人、密かな嘘、忙しく理想の日々。どれひとつとして追い出さない。来ないかもしれない未来、もし来るのなら幾度もさかのぼる前世になろうね。すがめても狙えない、手をのばしてもつかまえられない、飛べない、もう飛ばなくていい、そんな夜空の鳥に、いつかはなろうね。

3+

No.719

持っておこうとしてこぼしてしまう
食べてしまおうとして滴らせてしまう
もったいないと屈んだらまた落としてしまう
深呼吸するうちに鳥や虫や草花が掠め取る

ぼくと君のどちらにとってより必要か?
掲げて振っては君に手渡す
金銭以外見返りのないオークション
もらったタグも価値をなくす

受け渡しを終えた恋人たちは
名前を忘れることを約束して背中を向ける
ぼくたちって前にしか進めないの
名前を忘れたらやがて顔も声も忘れるんだね

生まれる時に知っていたんだ
それでもいいかと訊かれたんだ
それでもいいよと答えたんだ
まだ見ぬ頬杖の君がルーレットを回している

繰り返されることなどない
繰り返す思考にもまたと同じものはない
この孤独もページをめくれば消去できる
形見の青インクが切れそうだ

手放したんじゃなく引き寄せた
捨てたんじゃなく受け渡した
百度言い聞かせてやっと一度だ
自分で泣かせておいて犯人を君に尋ねる

1+

No.718

雨が連れ去った憂いの中に
大切な何かを入れっぱなしにしていた
取り戻せず名前は思い出せない
本当にぼくのものだったかどうかも

真綿にくるまれた凶悪性
つまづいて露呈してしまう、介抱したのに
まっすぐに憤怒したかった
頭の片隅で「ぼくだったかも」など思わずに

他人事なんて一つもない
裏返せば同じ糸が絡まっている
優しいままのあなたでいてよ
願いがあなたを追い詰めることもあった

混じらずにかわしていく
指の間から漏れる光に照らして
いびつに震えながら手を伸ばす
遮られるまでを見届けて

救いのない一行をなぞり
あなたはたしかに微笑んだ
まだ救われていないぼくのいること
歩き出せないぼくのここにいることで

3+

QUARTETTO#11『成長痛』

シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)

いちばん始めから見ていたかったな。

あなたが産声を上げた瞬間、周囲で喜ぶ人になりたかった。はじめての食事、はじめての歩行、あなたの身の上に起こったすべてのはじめてに居合わせたかった。ランドセルを買ってもらって張り切るあなたを写真におさめたかった。あなたが悩んだり笑ったりするところを見守りたかったし、反抗期に入って口数の少なくなったあなたからぶっきらぼうな対応を受けたかった(あなたにもそんな時期があったんだろうか?想像つかない)。初めてのデート前日に緊張するあなたを陰ながら見守りたかったし(うそ、絶対阻止)、免許をとった日も、成人式の夜も、いろんな経験をして、オトナになっていったあなたを、ああぼくはどうしてあなたから一周遅れで産まれたんだろう。

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3+

QUARTETTO#10『わるいねこ』

シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)

たった数日そのコースを歩かなかっただけで、ずいぶんと景色が変わっていた。雨がたくさん降ったせいかも知れない。花は落ちて緑が繁る。薄く柔らかな葉っぱが太陽を照り返してる。生命の息吹を感じられる、爽やかな風の似合う、そんな形容詞をつけて愛でるべき変化だろうに、ぼくの心では季節はずれの黒い毛糸が絡み合っていた。ぱさぱさに乾いて、ほどくことができなくて、弱いところがぎゅうぎゅうに締め上げられる。助けたいのに、それはぼくに「みすてて」「もういって」と告げていて、ひとりの予感に震えていた。

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1+

No.717

ひどい喧嘩をした後に、プラスチックに押し込んでいた海が溶け出してくる。無視していたらかかとまで上昇して、それでもなにもしないでいたら腰まで浸かってしまった。きみに連絡を取ろうと思うんだ、でも手段が遠いところにある。傷口に海水が染み込んできたけどぜんぜん痛くはない。もう海水ではないからか?傷の半分は自分でつけた。傷ってたいていそんなもの。半分は自分でつける。あの子もこの子もぼくだって。ほどよく拡げたら持って行って見せるんだ。ほら、きみのせいだよ、こんなに。ちゃんと受け止めてよね。優しい心を痛めたい。やり方がまずくても。ぼくは子どもだ。ぬいぐるみを捨てられないでいる。白い舟を浮かべた丸い海のことも。海底で名前をひろった。ぼくのかな。きみのかな。ここではみんな探索者だ。だれのかな。あれはどこかな。これはどこかな。ぼくはだれのものだったかな。飽きるほどさまよったあと、淡く光がのびてくる。空き部屋に朝がくる。海ひとつ捕まえておけないで、からっぽの朝がくる。流れるタイムライン、訃報と笑顔が隣り合って整列してる。あちらが夢、これも夢、ぼくの傷は晒されて消えてった。海を分けてください。ぼくも差し出します。光をあげます。もう一度海を売ってください。きみにつながる、つなげる、ちゃんと目覚めたぼくにあの海をもう一度。

2+

No.716

いつか使えなくなる
弱い魔法を繰り返してた
きみにたぶん魔法は効かない
それでも懲りずに繰り返してた

雨の夜になると
たまに泣くのはなぜなの
そう尋ねたぼくに
助けなくちゃと思うんだと答えた

(なにを?)

空を
たくさん零さなくちゃ
みんなに行き渡らないだろ
少しでも助けなくちゃと
微力ながら尽力を

ぼくはからかわれたのかも知れなかった
だけどなんだかわかる気がした
空からきみを見ているときは
しょっちゅう絶望を抱いたものだから

そんなにつらいのなら
落ちてみればいい
あのひとはそう言いぼくの背を蹴った
乱暴なひとだ、ほんとうに乱暴な

ぼくには魔法が使えるんだよ
うん知ってる
秘密にしてたのに知ってるなんて
使われているなあと思っていた

きみが笑うので人差し指で星を撃つ
弾けた破片がひろげた掌に落ちて
それを捏ねて宝石にした
悪いことをするね、ときみはまた笑う

カラスが歩く
目玉焼きが焼ける
紫陽花はもう少しで咲きそうだ
そんな風景にきみのいること

見慣れた
変哲もない
それゆえ憎むことさえあった
きみが加わるだけでまた輝くということ

初恋はやぶれる
好きな人とは結ばれなかった
だから今に至る
住むべき人と暮らせる惑星

4+