no.188

僕はそれが自分のためじゃなくなることを恐れた。我を忘れる。食事が喉を通らない。色が分からなくなる。景色が鮮やかになるなんて嘘だよ。暗い氷に閉じ込められたんだ。さもなくば夥しい光の粒に溺れた亡国。これが呪いでなくてなんだろう。誰のためにもなりたくない。考えることをやめた。みんな一斉に。幸せになった。最後にはなりたくないから順に。二つの笑いを同時に浮かべて。夢を見たのは誰と誰。逃げるより留まることを選んだのは。変わるより染まること、求めるよりただ寄り添うこと、愛しいと言わないままふれることを、選んだのは、誰と。

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no.187

誰が知らなくても生きていけること。ずっと秘密のままでもやめないでいられること。それを持っているからひとにやさしくできるし何を言われても平気だよ。どんな美しい音楽もこの衝動より深く染み渡ってはこない。ぼくはこれを本当に好きなんだ。夢でもなければ希望でもない。評価はいらないだってぼくが欲しいからつくるんだから。ひとりよがりのあたたかさ。ベランダで蕾をつけた植物の名前は知らないけれどそれを置いていった人の笑顔が見えるよ。きみだって知らない。知らなくていい。

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no.186

きみにはわかりっこない。そのことを希望や絶望って呼ばないで。だれともわかりあえっこない。そのことが天国や地獄とつながったりはしない。一度決めたら動かせない。ぼくは冷たいって言われる。それなりに探したこともあった。なぜ同じ時に泣けないの。なぜ同じものに喜べないの。先生の上には真っ黒な墨で言葉があって、それは破裂した瞳みたいだった。分解されてなお集団を見張る強くて不器用な何かの化身だと。ぼくは立ち止まる。まだ流れない。ぼくは歩き出す。やっぱりまだ流れない。血も汗も涙もこの体から出て行かない。一滴も。風が吹いて聞きなれた声が耳の裏でまた囁く。おまえは冷たい。そう。それが、どうした。悲鳴を聞かせたこともないのに。

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no.185

どうしたらいいか分からないんだ。そう言ってきみが引き出そうとする答えは本当はぼくにとって都合のいい言い訳で、それをぼくに答えさせることで楽になろうとしているね。だけど責めるつもりはない、きみはいつもひとりですべて被ろうとするから。雨は。いつか見た星みたいにたくさんの雨は地上に降ってすべての伝言を消し去ってしまう。もうすぐ会えなくなるね、そうしたら名前も、気持ちも、忘れて、それで二度と苦しむことはないのかも知れないけれど、それだけになる。それっきりに。切り刻んだ手首の細かな溝から緑が次々と芽吹いて、次はどんな花が咲くかなって考えているあいだだけ双子みたい。それはどんな色のどんな名前で、あたらしいぼくたちに呼ばれるんだろう。誰もしらない物語を見届けるまで、この恋を愛になんかできない。

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no.184

旅立たなければならない。ここは淡くて甘い。堕落で失う程度のものはもう無いけれど、それにしたってここを発たなければならない。会うひとに会うためではなく、得るものを得るためでなく、その先に何かあってそこへ進むのではなく、泥酔して欄干から身を投げるようにして。眼下の海はいつしか線路に姿を変えるだろう。幻は手品のように量産されて笑い声も掻き消されるから真偽は確かめようがない。大勢が口を揃えて言うことばに、首をかしげることはまちがっている。だったらそれがまちがいじゃない場所へ行くんだ。ただしいもまちがいも。美しいも醜いも。さみしいもうれしいも。憎いも愛も。誰にも委ねることはなかった。それなのにいつからかぼくは委ねた気になっていた。了解が欲しくて頷いて欲しくてさもなくば馬鹿だって言われたくてずっとその目を見ていた。夢はいつも無責任。幸せに死ねる保証なんてどこにもない。だけど死ぬ。ぼくはいつか死ぬんだ。これが恩寵でなくてなんだろう。神さまは、いる。あちらはぼくのこと、なんにも知らないかもしれないけれど。月が沈む。太陽の後を追って。星は誰かに匿われたまま。世界を回す手のことは、まだ見えない。

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no.183

ひとは目に見えないものを馬鹿にすることがある。目に見えるものを過信することがある。目に見えないから「無い」と思うことがある。「無い」ものを「ある」というひとは異端に思われて恐ろしいし不愉快だから排除したりする。目に見えるものに価値を与えないひとはそうでないひとにとって愚かしく見える。そうしながらひとは目に見えない、無数の、名前もないものによって生かされたり死なされたりする。説明のできないものはあってはいけないとする。ひとは確かなことの証明に実存を挙げる。証明とは他人へ対する行為であるから、自分に対しては本来必要でないにも関わらず、それがなければ自分さえ納得させられないひとがいる。自分を他者化して判定を待つみたいに。ひとはいつも許されたい。認められたい。排斥されたくない。誰かといたい。ひとりでいたくない。惨めな思いをしたくない。できないことをできるひとを認められない。ひとに備わる条件すべてに縛られて何か呪っていないと呼吸ができない。きみはぼくのこころを馬鹿にする。ぼくだっていつか誰かの何かを貶したのかもしれない。だけどそれを認めるひとがいたとしたらそのひとは貶されっぱなしにはならない。ぼくの埋められない溝を、きみの認められないぼくを、拾って美しいと呼ぶひとだってあるのだ。ひとはばらばらになれない。願いながらつながっていく。みんな馬鹿なのかなって思うよ。きっとみんな馬鹿なんだ。何も知らないくせに、さあ。

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no.182

ありがとうがさようならにきこえる夜。でたらめなようでそうではない夜。きみがぼくを見ていた。今のではなくて遠い昔の。(と言っても地球の歴史から見たらそれは瞬きにも劣る時間かもしれない)。ぼくはふと、きみに産まれた気になる。錯覚。半分はまだ夢の中にいるってこと。きみはぼくの、まだ今のぼくでないあのころのぼくを見ながらミルクを飲んでいる。たくさんのお砂糖。ぼくは思う。いつか見たのではなかったか。この光景を。誰の視点。誰かの視点で。ぼくを見るように誰かを見ているひとの姿を。それはひとりの青年だった。窓辺に座る母を見つめる、父の視点だった。ぼくは熱の放しかたを知らないで涙を落としていた。ずっと会えなかったみたいだ。一緒にいなかったことはないのに。たった今会えたみたいだ。時を超えて嘘みたいに。朝陽よ、まだ待って。願わくばもう一晩、この幻を繰り返して。泣いたっていい。ずっと切れ端だった。笑ったっていい。結ばれることもあるって知らなかったんだ。

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no.181

今ここでおまえを拾う。いつか私を救うかも知れないから。ふりかえるな、ふりかえるな、終わりあるものはいつも良きものに見えるもの。誤るな、誤るな、それはやがて形を変えるもの。引きずられるな、引きずられるな、それは回復したらやがて飛び立って戻らないもの。それでもいいか。おまえにとっての私がそれでもいいかと、ずっと誰かにたずねたかった。できなくて寝顔に語りかけた。おまえはたまに意地悪で頷く。あたかも夢のつづきみたいに。私はおまえが思うほど軽々しく憂鬱なのではない。そう反論したところで滑稽に映るだけ。だから黙ってただそこにあろうとしていつも失敗をする。おまえはいつも、胸が苦しくなるほどの褒賞をくれる。身に余って歌になる。他人の唇からこぼれ落ちて、どこかの出会わぬ子どもの悪夢を切り裂く光にでもなるんだろう。なるんだろう。私には今、そうとしか思えないのだ。決してそうだと告白はしないが。

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【小説】いちゃいちゃしてるだけ

きみを嫌いになった。悲しくなった。自分が自分じゃなくなったみたいだ。治らない傷跡に思い出を隠して縫った。異物じゃないから吸収してね。そのまま埋もれてねって唱えながら。トランクケースを開けたら海につながっていた。ワンルームに海水が流れ込んでくる。いろんな物がぷかぷか浮いて、何ならカモメの声までする。きみはどこまでも頼りがなくて嘘ばかりつく。頑固だし。機嫌が悪くなるとすぐ物を投げる。真夜中に僕を呼び出してお粥をつくらせたこともあったな、そう、あの時は熱が高かった。きみはろくに視線を合わせなかった。テレビをつけたけどおもしろい番組やってなくて名前も聞いたことない山岳地帯に暮らす山羊の親子をずっと眺めていたらきみが言った。海に行きたいって。
「関係なくない?海」と僕。このタイミングで。だってテレビでは、山羊を。「どっか行け、ばか」ときみ。まあ、たいていの理不尽には慣れていたしその時の「ばか」には感情がこもっていなかったからかえってからかいたい気持ちになったんだ。
「ほんとにどっか行っちゃうからな」。「そう言っただろ」。「僕がいなくて生きていけるとでも」。「死ね」。「お粥もつくれない人間が」。
ガゴッ。
これは僕のおでこに、飛んできた器が当たった音。
今度こそビシッと文句を言ってやろうと顔を覗くと潤んだ目は僕をしっかり睨んでいた。
わけがわからない。なぜ僕のことを睨む。そんな理由がどこにある。
二人はしばらく睨み合ったまま膠着状態となった。
そのうちきみの目から漫画でしか見たことない量の涙がぷかぷか溢れて本当に、ぼたぼたと音が鳴るくらいベッドのシーツに落ちたから、まるで僕は自分が殺人鬼にでもなった気がした。だって、急に。きみが泣くから。嫌いになったって言うんだろ。嫌いだなんて言ってないだろ。か細い声に慌てて僕はそう答える。きみは僕よりはるかに混乱しておりこれまで開くことのなかった箱を開けて見せる。

「じゃあ桜でいい」。

僕に対するお伺いなのか、いやいやお伺いなんか立ててくるような人物ではなかった。
獲物を仕留めた肉食獣ってこんな気持ちなのかなって、腕の中ですやすや寝るきみを見て思った。

でも僕は肉食獣になれない。

きみが嫌いだった。すぐに物を投げるし自分の非を認めないし、わがまま。入れ替わってやりたい。それでも僕がどんなにきみを気にかけているか知らない。僕になって思い知ってみろよ。こんなにも離れられない自覚があって、溺れそうになるんだ。嫌いになった演技はそれを強めるだけだった。なんであんなやつお前が面倒見るの。みんなそう言うよ。それも聞いとけよ、僕と入れ替わったら。わかんねえんだよ。勝手に構っちゃうんだよ。僕の代わりに答えとけよ。教えてくれよ。

春夏秋冬。桜でいい、は、きみのせいいっぱいの譲歩だった。駆け引きはやめる。そんなことしてる時間はない。きみがするなら僕はしない。海水を溢れさすトランクケースを足で蹴って閉めたら、すぐに行く。果たしてきみはベランダに立って、僕の帰りを待ちわびていた。エレベーターを待てなくて階段を駆け上がる。トランクケースが角に当たってがこんがこん音を立てる。スニーカーを脱ぐのももどかしくて土足で部屋にあがる。駆け寄るなんてプライドが許さないきみに覆いかぶさる。むぐう、と呻き声が聞こえたけど幻聴だよね。僕の呼吸がうつってきみも激しくなって「いいよね」ってスウェットの下から手を入れたら熱いから嫌だと叩き落とされた。二人は黙って息を整えてどちらかはどちらかのためにまた泣いている。約束はしない。守らなくていいことなんかひとつもないから。腕の中で笑った、きみの声がする。何あのトランクケースは、って。知るか、そんなこと。嫌いになった。大嫌いだ。かぶせるように言い合って僕たちは永遠に入れ替わることのないお互いの体を自分の魂みたいに抱きしめた。

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no.180

この手が届いたら消えてしまう
遠くの不安定な稜線をなぞる空の輪郭
僕たちの影はあの日に舞って帰る
だから記憶は鮮明になる
ありもしない思い出を重ねて色濃く
本当の会話は見えない糸になる
だけどそれはしばらく固く絡みついて
忘れただけの僕たち首を傾げる
あちらこちらで号砲が鳴って祝杯
いなくなって初めて名前がついた
伸ばした手の震える指先が今みつかって
まるでかわいそうなものみたいに愛される朝

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