no.236

きれいに澄んでいくきみを見ていられないのは、きみだけはいつまでも僕に訴えないでほしいからかもしれない。遠いちいさな街で誰といますか。天気はいいですか。新しい猫がいますか。その子をなんと名づけますか。たまに昔話をしますか。そのお話の中で僕はどんな役割になるのでしょう。少しでも言い淀んでくれたらと思うけどそうならないきみを知っている。もし躊躇うならもうほとんど知らない一人になったんだ。僕たち美しかったね。あの夏、あの日々、起こることすべて悲劇になっちゃって。潰れた檸檬、多角形のグラス、保護された卒業写真。あの時にはあの時の。今には今の幸せがちゃんとあるってのに。太陽と月の鎖で結ばれて眠る。どちらが寝返っても引きずられますように。幻であってもそのことが変わりませんように。

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no.235

僕が食い入るように読んだあの言葉は、今、どこだろう。もしかすると僕しか知らないのではないかと思わせる密やかな場所は。あなたは今はもう忘れただろうか。それとも覚えていながら、忘れようと試みては何度か敗れただろうか。あなたの生み出したものは、もうどこにもない国をどこまでも存続させるような狂気めいた信念があった。それに傷ついた人もあっただろう。僕も気づいていないだけでもしくは気づかないようにしているおかげで、だけどほんとうはそんなふうに一方的に被害者意識を抱えたうちの一人かも知れない。心に留め置く必要があった。あなたはあなたの気持ちだけでいつでも旅立つのことのできる人であったこと。そうと悟られず捨て去ることのできる人であったこと。例外なく誰もがそうであるように。ああ、記憶だけが僕をだまそうとする。事実はこんなにも明らかなのに。あなたにとっての僕が、僕にとってのあなたのような存在になれていたらきっとどちらかは救われたのに。

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no.234

同じ場所、違う顔ぶれ
綺麗だったものがもう見えない
誰に生きていて欲しかった?
ほんとうは
両手で作った箱の中で
いつまでも培養されていた鮮やかが
今になって僕たちを見放そうとする
逃げ出すものを確保しようと
緑が広がりながら強く輝く
大切にしすぎて使えなかった
最後の一枚、折り紙のような輝きのさ
(反発なんかせずに祈りに使うべきだった)
逃げ出すたびに聴こえていた音楽
耳をふさぐほど大きくなって
だけど夢の中まで助けてくれない
いつだってそう、
こんな僕たちを解放するものは
清く明るい希望なんかじゃないんだ

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no.233

ごめんと君は言ったけどそんな罠なら張らない方がマシ。そんなことにも気づかないなんて、まだまだ余すところばかりだ。揃わない鼓動に足並み。そんなことに不安を感じたりしない。好きなものは選べない。ただ、自分が何を好きかに気づいたときにそれを全身全霊で愛せるというだけ。何を好きになるか。誰を忘れられないか。思い通りにならないのは、つまりそこだけ。ただ、それだけ。それ以外については、伝え方も、思い方も、自由にできないものは何一つない。それでも嘘つきゲームを続けるのか。かわいいひと。とても、かわいいひと。

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no.232

君の秘密が露呈したとき僕は星が光り始めるのを見ていた。それは何かの芽のように背景を穿って、だけどすべてを覆い尽くすなんてことはしないで、自分たちが一番目立つような配分で存在できるよう弁えていた。その一つ一つがただの反射でそれ以上でも以下でもないと思えた時に子どもではなくなったと感じたけど戻りたいとは思わない。寄せるさざ波が確実にまた引いていくように当然のことだった。あの夜はどうか。暗い部屋で、だけど完全ではない闇の中で、君は満足したのか。白い塊を抱いて、何を睨んでいたのか。それとも笑っていたのか。もしも僕の方がおかしいんだとしたらどんな推察も憶測でしかないね。たとえば君が嘘をついていた、とか。そもそも君は実在したのか、とか。それでも誰かの微笑を引き出せていたら良い。僕のでたらめが、空想が、虚言が。それは、それこそは、滴り落ちそうな星の光より尊く映るから。もしも無謀な墜落だとしてもそういうことなら許せるんだ。

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no.231

僕が育てていた花を摘んで一輪ずつ窓辺に飾ること。それは良い香りをさせるだけで何も語らない。そのことが君を饒舌にする。聞き役のいない密室で反響した言葉はガラス玉になって一瞬で砕け散る。それを拾い集めて新しく台詞にする生き物はない、ただ、砕け散る。君は言う。あなたは何のために殺されたのだ?生きていかなければならなかったのに。花は重力に耐えかねてこうべを垂れる。逃げ出すように。反芻する。共鳴するもののない場所で。あなたは、何のために、殺されたのだ?時に大袈裟に。時に慎ましく。時に派手に。あなたは、何のために?必ず最後には同じ解にたどり着いて崩折れる。その時までずっと。もう枯れるものはない。もう責めるものもない。事実だけが逃げ出しもせず無愛想に横たわっている。君の手で殺されれば誰も苦しまなかったのか。考えることには意味がない。あるとすれば時間潰し。そう、これが君の夜の乗り越え方のすべて。ひとつも間違っちゃないと思うよ。

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no.230

誰にでも、彩られた風景がある。もともとは現実に見たものかも知れないが、こうであったらいいなという当人の願いが込められて姿を変えた果ての類だ。そして再び同じものを目にする機会があれば失望することが分かっているからあえて避けたりする。あるいは別物だと言い聞かせる。自分の知っている「それ」だけは記憶の中と寸分違わないと、むしろ本来はそれ以上のものだったと。僕は人より脚色や美化を行う傾向にあるかも知れない、とは思う。そりゃあ他人の頭の中を覗いたこともなければその人の過去に見たものなんて知りはしない。だけど、五月の夕暮れ。風に揺れるレースのカーテンに投げ出した脚を柔らかく叩かれている時。はたはた。しん、と静まり返った公園で何も考えていない時。遠くで犬が吠えた。潮が満ちた。線路の上を電車が走って、進級した学生がお辞儀をする時。口の端からこぼれた甘い蜜。液晶の中のミクロの世界。新聞広告。櫛が髪を梳く微かな音。そういった時に、ふと、微かな気配が染み出してくる。僕は、襲ってくるものを拒むことはしない。その代わりにじっと眺めるようにする。そうすれば恐怖というものは殆ど発生しなくて僕は物質と向き合う。音のない世界。耳ではなくて思い出がとらえている。いつかの僕が同じような目をして今の僕を見つめている。こういった断続的な隙間が、別次元のようにぽたぽたと落ちてくる。天井から。海にかかる長い橋を渡っている時に天地が逆さまになったような錯覚を覚えたあの星空。ここにいることを咎めるように、見守るように、僕が僕を見ている。明日ではなくて、昨日ではなくて。今僕を見ていた

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no.229

どうしても白にしか見えない。あの日とあの日を引っ張ってきて重ね合わせるんだ。灯台は泳いでは渡れないところにあってそのために推測だけで物を語るようになる。君たちが亡くなったのは春の一日でした。誂えたように綺麗な色彩の中、過不足なくすべて整って、何が起きても必然だったと思い込めるような昼下がりでした。君たちは緑色の湖に一人ずつ背を上に浮かんでいて僕は一瞬、悲しいとか恐ろしいとかよりも先に何故だか安心してしまったんだ。こんな日なら。こんな景色なら。ちっとも残酷な出来事ではないだろうと。今でも僕はその一瞬の感覚を思い出しては自分を見失いかける。だけどそれは時を経てますます強く鮮やかに、それ以外を飲み込みそうになるから僕はよく他人から幸せそうだと言われる。そんなんじゃない。いや、そうなのかもしれない。紺碧の夜空にあいた無数の穴がいつか全部線で繋がったら支えきれなくて落ちてくるのだ。向こうもこっちもなくなって一つになるということ。起こらないうちは夢で絵空。君たちを泣く人は僕を除いて誰一人いない。そう思い込めたら自然と笑みがこぼれる、邪悪で無知な。

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no.228

冷たい絹で目隠しをしたらいつも通りの手順で雨音を流す。柔らかに深く埋もれて何度だってあの日に帰る。心配は要らない。必ず戻ってくる。僕は押し返されるから。だから大丈夫。あの時間は決して新たに要素を追加しないんだ。誰だって例外じゃない。沈没していくのかあるいは浮上しているのか。何も見えないぶん色は思い描いたとおりになる。最後にはゼラチンで固められる悲劇。眺めたって拗ねてみたって手は届かない。触れられない。切実なのか狂っているのか。飲みくだしたら一つになれた気がするけどすぐに錯覚だと思い知って焼け野が原の夢から覚めるだけ。君はいつも逃げ切ってほしい。怯まず、振り返らず。僕と同じ過ちはせずに。冷徹に、非情に。そして新しく繋いでゆけ。とめどなく光放つ魂であれ。

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no.227

腰の高さに積み上げられた平均的大衆。安堵の次に焦燥に襲われる、放っておけばそのまま発作になる。(君はこんなものがいいの?本当に?)。誰もが通った時間。後方の季節。つまづいただけで骨折しただなんて言えない。僕だって平気に走り抜けたかった。矮小化して何食わぬ顔で語りたかった。だけど、それが出来ないのなら。偽らない以外に方法は無いんだろう。僕が選択できて、尚且つ、呼吸を整えればまだ、あともう少し生きていけると言うために。誰の背後にも物語が亡霊みたいにあるって言われれば分かる、だけど一人一人は憶測することでしか他人を理解できない。だったら誤解されてでも自分を発光させるのがいいって言うのが君の立場で、そんなのできっこないって怖気付く潔癖症が僕の立場だった。演技は順調で二人は退屈に追いつかれることはなかった。誰かの凡庸な世界の片隅でちょっと目を惹く異質になってゆくこと。安心するだなんてそれ変態だよ。痛みに気づかないだけの強さがあったら良いのに。そんなもの望んでって君はまた鼻で笑うだろうけど。ガムシロップみたいな夏が来ても正体不明に溶かしてはくれない。一旦は全部ばらばらになるけれどどこかが原型を覚えてしまっている。だからただの分離。囲われた空間で行われるならいつだって戻れるよね。君にとっての希望が僕にとっての真逆なら、一緒にいる意味といない理由はどっちがおおきい?作為無くしてすべては正しい。真夜中、プールの水が冷たかったように当たり前だって思えたらいいね。一緒にいることもいないことも、その手が、指が、いつまでも動かないままなことも。潤んだ熱で僕を見下ろしながら次に何を言うの。

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