no.265

ギプスの上に置かれた手
温度は感じられなくても
体が優しく締めつけられ

どこへも行かせたくない、
と思った
いずれ旅立つこの手の人を

電信柱には蝉の一匹
テレビは最終戦の結果を伝える
涙みたいな汗がこぼれて
それはあなただけのものだと
知らないだろう、教えてあげたい

僕らふたりの通学路だった田んぼ道
蛍の光みたいに緑が輝いてる
空は不自然なほど青くて
その濃度を冬に持ち越せたらと願った

歌舞伎町の朝
人が生きること、今日が明日へ続くこと
ずる賢くても、要領が悪くても
ここにある夜が
誰にとってもそのうち必ず明けること

それら全部美しいって
言える人だ
それが全部嬉しいって
君はもう、言える人だ

(だから、
こわがらなくていい)

2+

no.264

近しいものを探している
いま周りにあるものから
目を逸らして
誰にも敵意を見せたくなくて

卑屈な微笑み
誰のために生きたかったか
忘れてしまいそうになる
そんな時はもう早く
分からなくなって

いっそ、

透明になりきれない透明
無名になりきれない無名
ぼくは誰にもなれないし
誰にも本当はなりたくない

集荷人のもう来ない
青色したポスト

誰にも言えない秘密
捨てられた船の模型
風に飛んでった麦わら帽子
蝶々追いかけた緑の網
最底辺にはぼくの
何にも溶けきらない骨のかたまり

届かなかった思い出は
それだけで輝く
果てのない直方体
生は朽ち果てることがない
配達人は待っているのに

2+

no.263

空の青さをどうしても
見ていられずに視線を落とす
食べかけの林檎に蟻が群がっている
どうせなら違うものに生まれていたら良かった

願望は次元を飛び越え
あるはずの足枷を切り離す
装飾過多の逃亡劇に見る
類稀な悪役として君の世界に生きること

それ以外に無いと言って
それだけが望みだと認めて
他に座る椅子はない
誰の目も当てられないよ

真下の鮮やかな妄想を吸い上げているから、
冠に添えられた花がいつも瑞々しいのは。
骨になりもう何百年も経ったから、
生い茂る薔薇の棘に痛み一つ感じないのは。

入れ替わる苦悩
それは片割れの悦楽
いま血も仮初めの魂もささげる
恋い焦がれた死に様のためにならば

2+

no.262

ただの障害であること。誰かの物語で、名前のない一部として生きること。何かを認めることはなぜいつも恐怖をともなうんだろう。なぜそれは敗北を予感させるんだろう。差し出すことをしただけなのに。いつまでも綺麗でいたいなんて綺麗事なのかな。踊り狂っていた猫も歌い狂っていた鳥もやがて静かになったダイヤモンドの夜に。それぞれ一つ一つの首を垂れて、預言者の言っていたとおりだ。それを安心だとみなさなければならないだとか。いかれてるんだって、今でも僕は思っているよ。どうしても巻き取られるわけにはいかなかった。こんな僕にある人が自分だけかわいいんだねって言う。仮にそう見えているのだとして、最後の一枚はまだ剥がれていない。名乗り出たくて、だけど億劫で。ここにいつまでもいたくて、でもそれじゃあ流されてしまうだけで。人は、かなしい。起きた後や寝る直前になると特にそんな思いが湧き上がるのは、眠りが死につながっているから。いや、もっと俗っぽい勘違いか。(だといいのに)。本当は好きなんじゃないかって、君にだけは言われたくなかった。ひとりでは眠ることもできないくせに。抱きしめ合うことはなくても損傷の具合を互いに気にかけている関係。早く先に崩折れないかなって。うまく生きられない君の存在が今日も僕の夜を洗い流してくれる。いつまでも不器用でいたいと思うよ。どれだけ見つめてもまっ暗い空の奥には何も見つけられない、そんな毎日でも。願うことを忘れないでいたい。肌は刻々と生まれ変わって強くなることをしない。いろんな刃物があてられてその度に柔らかな細胞は切り開かれる。二人がどんなに反発しあっても赤い血は知っている。遠い神様の声が秘められた小さな運河。ないしょ話がこぼれ出す。

1+

no.261

何も疑いたくない。このまま飲み込まれてもいい。それはきっと悪いようにしない。僕を彼らのところへ連れて行ってくれる。蜜と柔肌だけの日々。流れる血も新しい。怯えることはない。両耳をふさいだ手を自由に使っていても傷は広がらない。それで僕は創作ができる。古いものを綺麗に並べて破壊されない。目を閉じて歩いていてもぶつかることはない。水の中にいるみたいに平和だ。平和だった。水中から火の手が上がる。波紋が嘲笑になり腕を見れば何本もの棘が突き刺さっている。ある棘は貫きうねっている。もう治癒はないだろう。僕は引き戻されてしまった。あれを知ったばっかりに闇はいよいよ深い。神様なんてカタカナだけの呪文。口に残っていた砂糖が砂に変わる。息ができないけど理由を言えない。君はそこにいるの。君も同じだと言って。棘に埋もれて鈍感な獣。保ってなどいたくない。闇に包まれる一瞬、片隅に桃色の空が見えた。あれは今の終わりなのか、これから始まる断片なのか。あんたは剃刀の使い方がうまくない。舌の使い方もうまくない。そう言って仕方なさそうに笑った君は本当に僕の幻じゃなかったと誰が言えるんだろう。突き立ててくれ。桃色が溶けきってしまう前に。こちらから破ろう。闇に心地よさを覚える前に。冷えたキッチンの蛇口からひとりでに転がり出た真実が与えられる。僕たちは誰からも生まれなかった。最悪だ。僕たちはひとりでに生まれた。本物は覆い隠された。最悪だ、のその意味も分からないまま白いベッドの上で繰り返した。蝉が壁に当たって落ちる音がした。もしここが体内だとしても異物を取り除く手はない。心だったら良かったのに。何にもない。響いてこない。静かだ、

0

no.260

退廃にすがる郷愁。打ち捨てたものが新たに芽吹いて壁を成している。僕たちに提示されていた道はひとつひとつ静かに閉じ、この道は先細りになっている。歩くために歩いている。脇を結晶のような骨が散り落ちて行く。まともを保っていられない友人がでたらめに発言を始める。審判は惰性で烙印を押してゆく。鴇色。浅葱。群青。紫。それは遊戯にも似てまさか一生を揺るぎなく決めつけるものとは誰も気づかない。口唇に色を刷いてもらって子どものように微笑む。あれはもう駄目だ、これももう駄目だ。己を律しながらどこを目指しているのかさえ分かっていない。昨日見た夢で男が車に轢かれるのだった。汚れた犬を庇うために。しかし命までは落とさなかったのだ。傍観者たちは恩寵だと安堵したが、彼らのうち誰一人として気づいていなかったのだ。彼は犬の代理に死んでしまいたかった。他に堂々と消滅する術がないから。道路に飛散した檸檬の汁が涙を溶かす。不純だと言って。罰当たりだと言って。少しだけ脇目をした。僕は歩き続けている。どこにも留まりたくない。誰のものにもなりたくない。そのくせこんな自分がただ自分だけのものであることも恐ろしいのだ。指を詰めて解放される世の中だったなら。僕は健やかで明日もきっと美しいだろう。頬は赤く肌には張りがある。髪は黒く瞳はいつも濡れて光っている。譲ることができない。放棄することができない。どこまで分け入っても生がある。亡者が羨望の青白い目を向けてくる。振りかざすアルファベット。切り上げる特殊文字。核心はつねに隠して。引き裂くベール。贈られない手紙の嵐。一羽だけしつこく命乞いする鳩があって僕はそれには容赦がない。積み重ねてしまった爆弾をどこから切り崩せば良いのか分かっていない。もう嫌だ嫌だと思っているのに、表情は柔らかく誰にでも優しい。とっくに壊れているのだ。誰も見抜けはしなかった。横切るは褐色の肌。伸びきった前髪の間から爬虫類の体面のような瞳が覗いている。その子が現れるまでは。僕の初恋は蛇だった。そう幼いわけでもないが言葉を知らない魔性の蛇だ。

1+

no.259

証明を失って天を這う
昆虫なのか天使なのか
誰にも分からないまま

僕の夢は人を幸せにすることでした
そうは言っても
この奇天烈な姿を一度でも
目にしたものは百夜も続く悪夢を見る

なにが勇気だ、愛だ
誰もがやすやすと手に入れて見えて
いっこうに方法が分からないままなのだ

雑木林を抜けるとさらに深い森がある
本物の闇より恐ろしい生き物の住処
食糧にでもなれたらと決意したのに
気づけば頬張っていたのはいつかの骨
許せなかった血と肉それに臓器

雲のない空
斜めに横切る戦闘機
ミミズ腫れのような煙を残して
文句も言わずに

こんな自分を見せないためだったのか
森の奥深くまで僕を導いた理由は

激しい後悔をしたあとで
目が覚め以前の日常に戻る
何もかも元どおりで不気味なまま
僕だけが異様な経験を蓄えて

これで良かったのかは誰にも僕にも分からない
分からないまま地を這い、天のために生きるということ
あなたはずる賢いな
僕からまだ何もかもを奪い取ってはいないのだ

2+

【詩】140文字つめあわせ

祈りや幸福を願う言葉を挨拶の最後に付け足すほど大人にはなれない。ひそひそ話をされていたい。すぐに逸らせるように備えた目線で嫌悪を向けられていたい。毒も薬も必要ない。手枷のない腕と、足枷のない脚。それだけ。札の下がっていない首筋と、お互いの血のための塞がらない傷口。それだけ。

「未熟」

 

 

マリー
きみは忘れちゃったよ
遠いいつかにはしたくなかった
いつまでも今でありたかった

だけどその思いが
すでに表出した時から奴隷だった
音のしない時計にとって

マリー
きみの自由がぼくを切なくする
ぼくにないものを持っているから
そのままでいい
もう思い出せなくていいよ

「マリー」

 

 

誰かの生きられなかった朝
誰かに生きて欲しかった朝

朝を配達するのがたまに嫌になるよ
受け取ってくれない人がいる
持って行くと泣きそうな顔で
それでも受け取る人
受け取ってくれない人
受け取りたくてもできない人

朝なんか扱いたくない日もあるけど
これも僕の運命だからね

「朝の配達人」

 

 

この世の中は悲しいことがたくさんあって楽しいことがたくさんあってそのうちに分からなくなるの。平等ではなくて突然に不運でなぜ生きてるのって誰かに答えを出してもらいたくなるの。死のうって決めたらたちまち世界が優しくなって、もう少しって死ぬ決意をくじけさせた。僕が君を忘れませんように。

「翻弄」

 

 

散らばっていく火花をつかまえようと手のひらを「救う」の形にしたら水面はゼリーになった。時間は緩慢になり自分の挙動もゆったりとなった。テレビ番組でやっていたスーパースローモーション、の映像を見ているみたいな。「もしも」、僕は禁句をたやすく口にする。あの時この魔法が使えていたらなあ。

「スーパー・スロー・マジック」

 

 

どこかにいますように
その願いを裏切る気がして
今まで歩き出せなかったけど
どこに生きてたって
どうせ僕のことだ
ただ来るのを待っているんだろう
だったら僕から歩き出そう
そうすればからかって
タイミングが良ければ
笑い合うこともできるだろうから

「迎え」

 

 

君みたいになりたかった。どんなに意地悪な目で見ても悪いところなんか見つからなかった。僕ほどに。そのままでいいのに。なのに君はそう言って真似をさせてくれなかった。君みたいになりたかった。じゃ、ない。君に、なりたかったんだ。ウスバカゲロウに可哀想だねって呟いていた横顔を含めて、君に。

「同級生」

 

 

一つのディスプレイに一つの恋。二つの目で名前を探してる三つ編みの女の子。四季の荒波に揉まれながら五角形のペンダントを手に入れた。第六感は知らぬ顔で第七官界彷徨を左手に載せ人を待つ。午前八時に九度目の人違い。時は満ちた。最初からここまでを何十遍も繰り返したい。飽きもせず呆れられて。

「少女カウンター」

 

 

思い出が増えても歩き続けられるのかな。疑問に思う。君と出会ってからたくさんのごはんを食べた。たくさんのバスに乗ったしいろんな停留所で降りた。数々の風景、夜景、絶景。僕にしかない思い出の量を君もいる時間が上回ったとき、別人になっちゃわないかな。答えはまだ出せずに鼻の奥がつんとした。

「さよなら論理」

 

 

さみしさのためになんか泣きたくない。もはや涙声で君が言う。「意味わかんない」って言っていいかな。考えあぐねていると君が潤んだ目で僕のことを見ていた。「やさしいんだね。迷ってくれるなんて」。その顔のとなりで咲いている花を見た。帰ったら絶対に図鑑で調べて、いつまでも記憶してやる。

「青春の断片」

 

 

他の誰かを好きな君が僕に映って余計に世界がキラキラしてる。水面をかき混ぜる尾鰭が乱反射を作り出してる。どんな暗闇も坂道も恐れないんだね。眩しい場所で平気なんだね。僕は君をここまで引きずり落とすことができる。でもしない。その決意だけで僕は自分を謗らずにいられる。少しは好きになれる。

「日陰」

 

 

君がいつもいつも幸せそうなので僕は少し辛い。君が笑うと肋骨の中で硬い実がトゲトゲを出して柔らかい臓器とかをチクチクやる。幸せそうにしないでなんて言えない。君にとって僕は優しい聞き役にしかなれないんだから。たまには泣き顔くらい見せて。隙を見せて。そうしたら臆病な僕でも付け入るから。

「足踏み」

 

 

ナイフの先で新しいお肉をつついています。本日のランチはレモンとバジルが香っています。あなたに餌を持ってきました。私の話を聞かされている間の、隠しきれない困り顔が好き。手に入らないものを欲しがる目。踏み出せないくせに見ることをやめない。往生際の悪いこと。早くその仮面を剥いでよ。

「足踏みへの返信」

 

 

思い出の中で君と僕
永遠に流れているような夕焼け
赤ん坊みたいなトロイメライ

未来なんて知らない
これは誰かの叫び
これは誰かの流れた血

平和を祈る余裕はなく
時代を恨む暇もなく

呼吸するたびに
涙するたびに
命はその全身から零れ落ちてた

「8月6日」

 

 

お月様の雲に隠れるような夜は
捕まえたものをもう離さない
今日見た夕暮れは今日だけの特別
彷徨うだけの毎日にもうさよなら
まだだよって焦らしてばっかいないで

「おつきさま」

 

 

どんなふうに髪を切って
どんなことで泣いて
誰に笑顔を見せるのかな
これからの毎日は
何も決まってない
明日誰かいなくなっても
きみはそうと知らず
望むように生きていけるよ
優しい人が悪党になる夜に
声を持たない人が文字を見つける朝に
いつだってそうやって来た
珍しくもない命だ

「凡凡」

 

 

「それしかない」。僕にはそう言える人が羨ましかった。太陽はしばらく雲のむこうへ隠れ視界は柔らかだ。幼馴染を見上げる。まさか絶望だというのか。気づくか不安だった。「それしかない」は「それだけはある」の裏返しだということ。だから意地悪な僕は優しい言葉をかける。大丈夫、一緒にいるから。

「裏返し」

 

 

宇宙とポケットをつなぐには?あの子みたいに。ドーナツの穴に囁いたことを君にも言いたい。みんながひとりぼっちになる書架の間で。これはいつの夏だ?彷徨ってるわけでもないのに心細い。迷子って言わなければ帰らなくても良いよね。活字が血管に入り込んだから、次出る言葉はもう私のじゃないの。

「迷走図書館」

 

 

先に本音を言ったほうが負けになるゲームって誰が得をする?ばかばかしい。だけど頬に貼りつくスパンコールの鱗が邪魔をしてうまく笑えない。現在完了形、過去進行形、変えてくれるのは形容詞、形容詞、形容詞と助詞。もう少し実感したい、繰り返すことが罪になる世界に生きてるわけじゃないってこと。

「似非ホログラム、エトセトラ」

 

 

無邪気に人を邪険にして。壊れるほど乱雑に扱って。打ち消しながら爽快になって。負債を溜め込んで。死にゆくものを静かに見下ろして。絶対に助けないで。いつかあなたはこの夜を、よるをよるをよるを悔いて、汚れた手で顔を覆うの。その姿に救われる人もあるの。その姿にときめく人が今夜生まれるの。

「前夜」

 

 

ずっとあると思っているもの。ずっといると思ってる人。みんなあなたの思い込み。願い、希望。いつだって壊れるしいなくなる。縛ることはできない。復活は為されない。だけど知らなくていい。知ったとしても怯えなくていい。無邪気が一番。何も分かってなかったと悔いるところから産まれる物語もある。

「優しい産地」

 

 

髪切ったことに気づかないと怒るし、自分が退屈なら真夜中だろうが呼びつけたし、わがままで本当に可愛くなかった。だけど、本当に大好きだったんだよ。失恋を語る僕の前でクリームソーダをつついていたAI376号が顔を上げた。その表情がまるで人間みたいで、僕は思わず苦笑した。「もう大丈夫」。

「僕のロボット」

 

 

床すれすれの視界、半開きのドアから夏が見えた。血のかわりに溢れたワインが手を伸ばすけど、まだ到達を許されない。諦めて目線をあげればあなたの顔が映るんだけど、もうその名前さえ呼べない。首に巻きつく骨張った指。初めてぼくに触れてくれたね。これはきっとえいえんに解決しない殺人事件。

「未解決の恋」

 

 

タチアオイから視線をずらせば、バス停にきみを見つけた。尾行はしていない。ましてや探偵を雇ったりもしない。ただただ偶然。これがもしも初対面なら何か言葉をかけたりできただろうか。それとも見つめるだけだったか。きみが幸せであればいいだなんて、馬鹿げてる、ぼくはもっと悪人になりたかった。

「初恋の再会」

 

 

空から落ちてくるたくさんの囁き。今日は西からやってきて明日には東へ去るもの。きみの瞳にいつかと同じ結晶があることを信じて、夏休みのプール。あの子の死体が浮かんでいる。水はついさっきまで脈だったものを、もうどこへも運んでいかない。ただの反射に僕は、この世と白と黒を教えられていた。

「雨風雪光暗闇」

 

 

その場所はいつだって行くことができた。 利き手じゃないほうの人差し指と親指で輪っかを作って覗き込んだらもう、あお町。建物も食べ物も生き物もすべてがあおをしている。実は今でも行くことができる。だからついつい会議中にぼんやりと輪っかを覗いてしまって、今日も愛しの先輩に叱られる。

「マイ・フェイバリット・ブルー」

 

 

初めは蛇口だった。ひねると出てきたのは歌声と匂いだった。それはデート前日の鼻歌と一緒に食べたペペロンチーノ。次は噴水だった。湧き出るのは足音と笑い声だった。スキップでもしそうな歩幅と他愛もない。最後は心臓。どくんどくんとめどなく記憶がこぼれていた。お医者は流体物恐怖症と診断した。

「失恋と藪医者」

 

 

感情のないものにせっせと語りかけるきみが好き。窓際のオジギソウ、太陽と月、新しく買ったスニーカー、夏という季節。きみはおしゃべりが嫌いなのかな。言いたいことを言って、勝手に幸せそう。きみが本当は誰ともうまく喋れないこと知っているよ。あの夜、ぼくの縫い目に涙がいくつもこぼれていた。

「ほんとはね」

 

 

神様はどうして二で割ったの。ぼくはきみを、きみはぼくを、殺すことでしか始まれないようにどうして作ったの。一つずつ確かめ合って小さな間違いに憂鬱になって他の音もぜんぜん聞こえないで犠牲だけ積み重ねてる。愛も平和も偽善を忌避するそのまた偽善も何もかも消失か水没して。

 

 

どうして覚えていないんだろう。僕はどうして君を覚えていないんだろう。こんなに夜空は高く、波の音は優しいのに。今夜でなくてはいけないんだろうか。君のことを忘れたまま置き去りにすることが、どうしても今夜でなくては。せめてあと一夜、あと一夜が足りない二人。

 

 

餌をつけたら釣り糸を垂らす。見惚れるような流線型。おいで。念じた後はじっと待つ。蝉がじゃんじゃん鳴いて汗が噴き出てきて、今西暦何年なのか分からなくなる。首筋が痛んできて仰ぎ見れば、青空はずっと彼方にあって。灰色の大きな目がふたつ、ぼんやりと僕を見下ろしていた夏。

2+

no.258

口にしてはいけないこと。疑問を抱いては生きてけないこと。もっと上手に誤魔化して平然と享受する方法もあったね。悪いことじゃないって、言ってもらわなくても分かっていて、いちいち砕け散って再構築を繰り返さなくても、不器用なまま人を愛せたね。浸透を拒んだ。儚くないことは醜くて、血が出ない程度に噛みしめる計算高さなんて死ねばいいのにと思っていた。私が生き急いだぶんだけ君の命が延びれば良いのに。僕が嘘をついたぶんだけあなたが輝けば良いのに。因果の法則を狂わせながら、それでも続きを見たかった。私はいつまでも幼稚で、僕はいつまでも無知で、世界はどこまでも他人事で、指先から滲み出た魂は、せめて見えている範囲の空の色を変えるほど鮮やかではなかった。飛び立った後の巣には青色の花が咲いていた。触れるだけで明日を書き換えられる人、同じだけの力があるって信じられなかった。不自然でないよう身につけるための仕草を罫線に重ねて書き出した。また一つが終わることは誰のせいでもなく自分のせいだった。規則に則り回転する天体、マドラーで夜空をかき混ぜて混乱に陥りたい。刷り込まれた星座を書き換えて、誰かには知ってほしい。なんて、わがまま。なんて、独裁。食い散らかした退屈がビスケットの屑のように細かに私の夜空を彩る日、僕は俯いて同じ一節を繰り返しつぶやいている。僕が頼りない一糸に音楽をこめる一瞬、私の唇はその旋律のために縫い塞がれてしまう。

1+

no.257

首、頸動脈のあたり。ふわふわの毛並みを押し当てていると安心をする。いつからかそこにあって、あることがあたりまえだったもの。人はそれに安らぎを覚え、覚えさせたいと思う。永遠を誓う。幼年時代はこれから先を生きるためになくてはならない、思い出を培う場所だ。そこが礎となる。向けられる言葉は甘く、微笑みは優しい。留まろうと思わないうちは、終わりを知らない。だけどやがて考え方を知る。歩み寄ってくるものに耳を傾けるうちに、これはなくても平気だ。ぼくはもう強い。錯覚だろうが幻影だろうが構わない。ぼくがそう思っていることが大切なのだ。もう要らない。そんなふうに言って多くの人はたくさんのきみを何度も捨てる。転がったままきみは待つ。そして見ている。大切にしてくれた誰かが騙され、傷をつけられる。まるで感情を試されているみたいだ。何度も陥って挫けてしまう。立ち上がろうとしてまた叩きのめされる。そこには平等はなく要するに嵐に飲まれてしまったんだと思われる。きみは特段悩まない。ボタンの目でそれを見ている。やがてそれはきみに気づく。そこにあったんだ。ずっといたんだね。もう一度戻ろうと思う。連れて行ってくれ。疲れたんだ。あの日々が一番良かったな。きみが聞く声はずいぶんとしゃがれている。他に方法を知らないからきみは押しつけられた頸動脈を十字に切る。透明な傷跡から魂がこぼれて人の願いは叶う。きみはまた放っておかれる。痛むところがあるか。もしもあったなら教えて欲しい。手がかりにするから。引っ張り上げてあげる。そして私がきみを産んであげよう。ようこそ誰もが死にゆく綺麗な世界へ、今度はきみの番だ。

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