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no.192

両手で掻き取った砂の轍
正しさを追求して冷血になった
忘れられない背表紙が
ふいに大きな意味を持って迫り来る
悪夢の類は真昼にこそ訪れた
淡くまばゆいだけの日常に炙られて
きみたちは差し引きゼロだと主張する
だけどぼくはそんなもので
愛を帳消しにしないんだと跳ね除ける
綺麗事と絵空事にまみれていい
大人にならないことを責めてもいい
背骨は柔らかく知恵は少ない
降り注ぐ光も花も言葉の呪いから解放される

ぼくは祈る、ぼくに降れ、ぼくは祈る、きみに降れ、きみたちに降れ、ぼくたちに降れ、わかり合うことのない者達の上にそのままの姿で、光よ花よ、降りしきれよと。

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no.191

何を差し出さなくても幸福になっていいだなんて知らなくて瞬きばかりしていた。終わりを知った途端に全部が全部輝いて見えて誰かのぶんがなくなっちゃったんじゃないか、とか。分離帯に立って夜空を見上げると今が始まりなのか終わりなのかわからなくなって同じメロディがからだじゅうを埋め尽くすんだ。真新しい何かを生み出すひとになれなくて失望を恐れて針は何度も同じ数字を撫でた、目の前を行き交う群れが影でしかなくて邪魔するものは本当にいなかった、期待も羨望もいっときの幻でしかないって知らないまま怯える、かわいいだけのきみでいてください。

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no.190

ちいさな交差点に建つ、ビルの一階にある。喫茶店の優しい店主は新しい野良猫を見るように僕を見た。白い椅子に腰掛けて通りを眺める。と言っても人通りは少ない。午前の光がアスファルトを柔らかく照らして、宅急便の配達人が何度か行き来をする。食器の触れ合う音。テーブルに添えられた生木。葉の何枚か枯れていて、それがつくりものではないことを僕に教える。毎日来ることはできない。僕は何気ないものを本当に欲しかった。店主がやってきて僕の前に遅い朝食を並べる。正方形の箸置きはさわるとざらざらしていた。躊躇いながら口にした。なんで。なんで。お腹が空いて、しかも僕は食べるんだろう。自分の睫毛に陽が当たっているのがわかる。そこから溢れるものはもう何もないことも。限りがあるんだ。幸せにも絶望にも。正体は明かさない。あさってが来ないことも言えない。こんなお店の店主は僕を気に入るだろう。絶対に。ぜったいに。名前も、素性も、ここに至る経緯も知らないくせに。明日やあさってがもうこないことも。何も抱えていないわけではないってことも。骨張った長い指が視界に入る。わからない終わりならまだ何もできない。おいしかったですか。まるで怖いものなんてないみたいに、あなたの問いに僕は答える。はい、とても。ごちそうさまでした。また来ます。

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no.189

星を数えていない。数えるふりをしているだけ。何も見ていない。見えるふりをしているだけ。観察している。知ろうとしている。私を救うものが何であるのか。探している。求めている。祈っている。それがどこにもないことのありませんように。手繰り寄せたいときに切れ端さえ消えている。あんなものでも欲しい人のあったのだ。血だけが流れて名前も与えなかったのに。音にも色にもならない、ただ吸われて吐かれるだけの。誰にふれられなくても悪夢は虹と溶けた。私が信じるものについて話すときに。よりによってひたむきに。まだ残っているものがすでに失われた感覚になる。認識しながら何も分からないふりをすることほどの贅沢はない。すくなくとも私は知らない。星はいつも遠くにある。その途方もなさが今日も君に残酷な殺戮を思いとどまらせる。生まれたばかりの目に涙の柔らかく盛り上がる、誰もふたりを知らないでいる夜明け。星と君を書き違えた。やましいばかりの生存欲求。生きろなんて言えない。もう一度夜にならなければ。

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no.188

僕はそれが自分のためじゃなくなることを恐れた。我を忘れる。食事が喉を通らない。色が分からなくなる。景色が鮮やかになるなんて嘘だよ。暗い氷に閉じ込められたんだ。さもなくば夥しい光の粒に溺れた亡国。これが呪いでなくてなんだろう。誰のためにもなりたくない。考えることをやめた。みんな一斉に。幸せになった。最後にはなりたくないから順に。二つの笑いを同時に浮かべて。夢を見たのは誰と誰。逃げるより留まることを選んだのは。変わるより染まること、求めるよりただ寄り添うこと、愛しいと言わないままふれることを、選んだのは、誰と。

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no.187

誰が知らなくても生きていけること。ずっと秘密のままでもやめないでいられること。それを持っているからひとにやさしくできるし何を言われても平気だよ。どんな美しい音楽もこの衝動より深く染み渡ってはこない。ぼくはこれを本当に好きなんだ。夢でもなければ希望でもない。評価はいらないだってぼくが欲しいからつくるんだから。ひとりよがりのあたたかさ。ベランダで蕾をつけた植物の名前は知らないけれどそれを置いていった人の笑顔が見えるよ。きみだって知らない。知らなくていい。

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no.186

きみにはわかりっこない。そのことを希望や絶望って呼ばないで。だれともわかりあえっこない。そのことが天国や地獄とつながったりはしない。一度決めたら動かせない。ぼくは冷たいって言われる。それなりに探したこともあった。なぜ同じ時に泣けないの。なぜ同じものに喜べないの。先生の上には真っ黒な墨で言葉があって、それは破裂した瞳みたいだった。分解されてなお集団を見張る強くて不器用な何かの化身だと。ぼくは立ち止まる。まだ流れない。ぼくは歩き出す。やっぱりまだ流れない。血も汗も涙もこの体から出て行かない。一滴も。風が吹いて聞きなれた声が耳の裏でまた囁く。おまえは冷たい。そう。それが、どうした。悲鳴を聞かせたこともないのに。

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no.185

どうしたらいいか分からないんだ。そう言ってきみが引き出そうとする答えは本当はぼくにとって都合のいい言い訳で、それをぼくに答えさせることで楽になろうとしているね。だけど責めるつもりはない、きみはいつもひとりですべて被ろうとするから。雨は。いつか見た星みたいにたくさんの雨は地上に降ってすべての伝言を消し去ってしまう。もうすぐ会えなくなるね、そうしたら名前も、気持ちも、忘れて、それで二度と苦しむことはないのかも知れないけれど、それだけになる。それっきりに。切り刻んだ手首の細かな溝から緑が次々と芽吹いて、次はどんな花が咲くかなって考えているあいだだけ双子みたい。それはどんな色のどんな名前で、あたらしいぼくたちに呼ばれるんだろう。誰もしらない物語を見届けるまで、この恋を愛になんかできない。

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no.184

旅立たなければならない。ここは淡くて甘い。堕落で失う程度のものはもう無いけれど、それにしたってここを発たなければならない。会うひとに会うためではなく、得るものを得るためでなく、その先に何かあってそこへ進むのではなく、泥酔して欄干から身を投げるようにして。眼下の海はいつしか線路に姿を変えるだろう。幻は手品のように量産されて笑い声も掻き消されるから真偽は確かめようがない。大勢が口を揃えて言うことばに、首をかしげることはまちがっている。だったらそれがまちがいじゃない場所へ行くんだ。ただしいもまちがいも。美しいも醜いも。さみしいもうれしいも。憎いも愛も。誰にも委ねることはなかった。それなのにいつからかぼくは委ねた気になっていた。了解が欲しくて頷いて欲しくてさもなくば馬鹿だって言われたくてずっとその目を見ていた。夢はいつも無責任。幸せに死ねる保証なんてどこにもない。だけど死ぬ。ぼくはいつか死ぬんだ。これが恩寵でなくてなんだろう。神さまは、いる。あちらはぼくのこと、なんにも知らないかもしれないけれど。月が沈む。太陽の後を追って。星は誰かに匿われたまま。世界を回す手のことは、まだ見えない。

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no.183

ひとは目に見えないものを馬鹿にすることがある。目に見えるものを過信することがある。目に見えないから「無い」と思うことがある。「無い」ものを「ある」というひとは異端に思われて恐ろしいし不愉快だから排除したりする。目に見えるものに価値を与えないひとはそうでないひとにとって愚かしく見える。そうしながらひとは目に見えない、無数の、名前もないものによって生かされたり死なされたりする。説明のできないものはあってはいけないとする。ひとは確かなことの証明に実存を挙げる。証明とは他人へ対する行為であるから、自分に対しては本来必要でないにも関わらず、それがなければ自分さえ納得させられないひとがいる。自分を他者化して判定を待つみたいに。ひとはいつも許されたい。認められたい。排斥されたくない。誰かといたい。ひとりでいたくない。惨めな思いをしたくない。できないことをできるひとを認められない。ひとに備わる条件すべてに縛られて何か呪っていないと呼吸ができない。きみはぼくのこころを馬鹿にする。ぼくだっていつか誰かの何かを貶したのかもしれない。だけどそれを認めるひとがいたとしたらそのひとは貶されっぱなしにはならない。ぼくの埋められない溝を、きみの認められないぼくを、拾って美しいと呼ぶひとだってあるのだ。ひとはばらばらになれない。願いながらつながっていく。みんな馬鹿なのかなって思うよ。きっとみんな馬鹿なんだ。何も知らないくせに、さあ。

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