【雑記】世界が一つのチョコレートだとして

雑記だから読みづらくて話飛ぶし支離滅裂。

スマホで書いたものとPCのキーボードで書いたものって、違う、なんか違う。だから手書きだとまた違ってくるんだと思う。そしてそれをスマホで見るかPCで見るか紙で見るかでもまた違うんだと思う。
なんだってそうだけど中身だけ、本質だけってのは無いんだと思う。そういった意味ではすべてが本質になるのかな。たとえば一種類のチョコレートがあって、それをどんなパッケージでくるむかで味や気分まで変わってくる感じ?意識的だろうが無意識だろうが人は前後含めて味わっているわけだから純粋にその本体だけって味わいかたはしないんじゃなかろうか。手触り、舌触り、耳障り。いろんな感覚器がそれをとらえるわけでしょう、そして最後に一人の脳に集約していく。同じものなんてないんだなってますます思う。同じ本でも10代で読むのと30代で読むのとでは感想が違う。だから繰り返し読む人もいるし、ふと思い立って「そういえばあんな話があったな」ってまた手に取るのかもしれない。
人間関係だって例外じゃなくて、あの時のあの人どうなったかなって思いだすのは自分が変わったからかもしれないね。ていうか変わらないものなんかないからそうなんだろう。
じゃあもう変化しないようにって時を止めてしまったり生きているものを殺してしまえばいいのかっていうとやっぱりそれでも自分が生きてる以上は思いも感受性も変質していくのだから同じ関係性をどこまでも維持するってのは不可能に近い。育むか決裂。それしかないような気がする、っていうと、両極端な二択にしぼろうとするのは神経質な人間のすることだって言われるんだろーなー優しい本の中では。それでもたまには?わかりやすくしたいんだよ。グレーゾーン拾ってたらめんどくさいじゃん。収集付かなくなる。かみ砕くことと同義なのだから別に神経質なわけじゃない、かと言って神経質なことを否定もしていないしそれは良いものを生み出すことだってあるだろう?
こうやっていくと何も否定できなくなって自分を苦しめたりするんだよ結局は。成り行き任せの恋に落ち時には誰かを傷つけたとしてもそのたび心痛めるような時代じゃないんだよ。ってこの歌詞が出たの10年以上前ー時の経過のはやさ怖い!
ミスチルである。
ミスチルといえばたぶんいちばん繰り返し聴いたのシーソーゲームでその理由は当時読んでた小説サイトの攻めくんがカラオケで良く歌う歌って設定が由来できいてた。俗物との出会いはいつもインドア生活から。たしか受けの子が蒼太って名前で攻めが将と透だったような。うん、たぶん。透が秀才クールタイプで将がちゃらちゃらしたイケメンでどっちもイケメンで蒼太が素直な普通の少年で二人から愛されまくってる疑似家族みたいな話だった。
ミスチルのシーソーゲーム、ap bankの淡路島のフェスで虹が出た回すき・・・。ラストでシーソーゲームうたってて「虹だ!」ってなるのすごい。youtubeで見れる。ん、神かな?ってなる。こういうとこから宗教はじまるんならはじまるんだろうなー、って思う、みんなが高揚しているときに天災とか天候が合わせてきたら。って思う。
それはおいといて、商売も創作も(創作も商売のうち)、長く続くものに共通してるのって「明るい未来を見せたひと(もの)」じゃないかなって感じがする。
壮絶に悲しい終わり方とか、謎を残したり、うわー後味わりーな!っていう終わり方も嫌いじゃないしどちらかといえば好きなんだけど、長く続くのって、より多くの人に愛されるのって、受け取ったひとに「明るい未来」を見せたかどうかなんだろう。短期的ならいんちき商売だってそうだよ、これを買えばあなたの生活はこう変わりますよ。って未来を見せるんじゃないか。宝くじだって車や家のCMだってそうだし、音楽も小説もみんなそうじゃないかな。まあ要するに希望を見せるものには要注意ってことだ。見せ方がうまくたって保証はないんだからな。でもそんなこといって避けてたら何も手に入らないことだけは確かなので塩梅はむずかしい。めんどくさいからひきこもる。こういった精神構造で閉じこもる。
そしてシーソーゲームの歌詞に出てくる女の子がどんな子かって考えるんだけど「愛想なし」「友人の評価はイマイチ」「劣等感を逆手にとってわがままばかり」「母性本能を隠し持ってる」「図に乗ってノーリアクションする」って手がかりから察するにキャラ性が蒼太じゃないから将→透だったんじゃないかなって今頃気づいてる。

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